故人や先祖を供養するのは、自分たちの行為とか心がかれらに届く、という思いがあるからだろう。
故人は死んでも無に帰すことはない。個性はなくならない。生前とおなじように、喜怒哀楽がある。浄土か地獄かわからないが、魂とか霊とかあるいは千の風となって存在しつづけている。──そこが大前提としてある。
死んで無になったり、個性がなくなるとしたら、供養しても届かないので、供養する意味はない。遺族の自己満足だけになる。
さてここで問題なのだが、なんらかの供養が死者に届くと仮定しよう。そのとき、墓参りしたもらったり、法事で坊さんにお経をよんでもらうことで、故人は嬉しいと感じるのかどうか。
ぼくは死者の思いを聞いたことも感じたこともないので、まったくわからない。たまに死者の心が「わかる」という人もいるが、どこまでが思いこみで、どこまでが客観的な事実なのか、どうもわからない。
なんとなく思うのは、供養の主体は坊さんじゃなくて、遺族だということ。偲ぶとか思い起こすとか、遺族の「心」が故人に通じるように思う。それが供養になるのではなかろうか。もしも「いやいや」法事をやるとしたら、その「いやいや」という心が故人に通じてしまうのかも。
大切なのは、自分が生を受けて育まれたのは、根っこである親であり先祖のおかげ。そのことに心をいたし感謝する心だろうか。