過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ざんねんないきもの事典 講演を聞きに行った

ざんねんないきもの事典( 高橋書店)。30万部も売れている本。
その監修者の今泉先生の講演を、静岡大学浜松キャンパスに聞きに行った。
小学生とその親が対象。
 ▽
やはりナマの講演はいい。じかに聞けたのはありがたいこと。
今泉先生が、どうして、海洋生物の探求に至ったのか、どうしてザンネンないきものの調査を行ってきたのか。イリオモテ島での調査方法クマがどうしてヒノキの皮を剥ぐのか。ムササビがどうして鉄橋の下に巣を作ったのか。いろいろ映像を見せてもらって面白かった。
 ▽
こんな話が印象的だった。
どうだあ!と繁栄した生物は、環境が変わると必ず滅びている。
ひっそりして生きてきたものが、生き延びてきた。ナマケモノなど。
好きなことをコツコツと続けること、それが人生の幸せ。
年をとってもますます上達することがいい。絵とか音楽とか熟練していく。
小さいときに、たくさん遊んでおくといい。
そうすると、自分は何が好きかなあとわかってくる。
自分が得意なものがわかる。
それを追い求めていけば人生は楽しい。
「かわいい」というのは、はじめはかわいくても、かわいくなくなってしまうことがある。
でも、「どうしてかなあ」「どうしてこうなるのかなあ」というのは、ずっと続けられる。
そういうことを追い続けていくと、とっても面白くなる。
おもしろいことをつづけていくと、人生は楽しい。

あかりは、アンケート用紙に書いていた。
チータははやいけど。走ったあとライオンとかに獲物を横取りされてしまうのが、おもしろかったです」
チータは最高速度120キロだとか。しかし、その後、ヘトヘトになってしまい。獲物を横取りされることがあるんだそうな。ちなみに、馬はだいたい平均60キロの速さで走るんだとか。

聴衆の100%がマスク。池谷家はマスクなし。
あかり云く。
「みんなマスクしているけど、話をしている人はマスクしてないよね。それっておかしくない。意味ないんじゃないの」
そのとおりだ。マスクするなら、完璧な防毒マスクしなくっちゃ。スカスカの布マスクでコロナウィルスが防げるはずがない。かえって、自分の吐く二酸化炭素を吸って免疫力が低下するだけ。
まちなかに行くと、もうみんなマスクしている。じつにザンネンな日本という感じ。

朝から、ワイン飲んでる。たまにはね。

いつも2時か3時に起きるんだけど、今朝は疲れて7時だった。
なにしろ昨日は往復100キロ以上の運転。

静大で「ザンネンな生きもの」の今泉先生の講演を聞いた。150名ぎっしりの教室の換気の悪さにぐったり(話はとても良かった。で、マスクしないのはわたしらだけ)。
 ▽
喫茶「香爐」のママが移住した古民家を訪ねて、しばし談話。「こうしようという考えはない。縁に生かされる。なんの不安もない」
その言葉に共感。香爐のシンボルみたいなおっきな古時計をもらってきた。

それから、義父の家を訪ねて、お米30キロを50袋も運んだ。1500キロもだよ。もう今年は、米作りは最後かなあ。継承の道作り、企画しなくちゃ。3町歩も田んぼあるので、貴重だ。
 ▽
帰りは、サンストリートというショッピングセンターによって、サイゼリヤで食事。サイゼリヤはすごいな。安いし美味しいし、メニューが豊富。店員の動きも俊敏。

20年くらい前、サイゼリヤの社長を訪ねて取材したことある。東京理科大の学生の時に千葉の市川に第一号店をに出している。すごいことだ。以来、ファンになっている。ワインのマグナムのボトル2本、買ってきた。

そうして、遅く帰宅して寝た。
 ▽
そして朝。7時になると「すみれの花の咲く頃」のメロディーが鳴るのが春野町。なにしろタカラヅカをつくった白井鐵造の生まれたところだからね。

その前に起きようとすると、あかりが「だめー」とぐわしと抱きついてくる。「鳴ったら起きるからね」というと、すこし納得したようだが、メロディーが鳴っても、グワシッとつかまえられる。
「あれ、もう鳴ったよ。約束したじゃん」といううと、「鳴ってない、鳴ってない」と言い張る。

そんなこんなで、とにかく起きて、薪割りして薪ストーブに火を点けるとあかりも渋々起き出す。
「あたたかくなったねー」と。しかし、いつもそうだが、あかりは半袖一枚、下は半ズボン一枚。一年中、裸足。
「おとうちゃん、もっと焚いて、もっと暖かくして」
また、薪割りがんばった。
 ▽
康ちゃんは、ヴェトナムの友人が帰国して、おみやげいっぱいで動けないと言うので、早朝クルマで迎えに行った。

まあ、そんなことで一日が始まる。きょうは、のんびりしたい。仕事、山積みだけどね。朝から、ワイン飲んでる。たまにはね。

「死」というのは、かならず我が身に訪れる大問題

うちの近くで自殺した方がいる。まだ20歳。成人式が終わった翌週に亡くなったという。そんな話を昨日、聞いた。
どうして自殺したのか。わからない。親の嘆きを思うにつらすぎる。
 ▽
しかし、自殺が不幸かというと、わからない。
死んだ世界が、限りない至福に満ちたものかもしれない。

13分間の心肺停止というまさに臨死体験したした友人がいる。
彼にとって、その「臨死体験」は、無限の安らぎと至福に満ちたものであった。「私」という意識のない「覚醒」が永遠の今ここにひたひたと広がっていると感じたという。
よみがえりから身体は不自由になったものの、思考能力にダメージは来ていない。執筆活動を活発にしている。
  ▽
シスター(キリスト教)で臨死体験をした方を知っているが、やはり至福の体験で、それまでの人生とは全く異なったありようにシフトしたとも言う。

だが、それらは「臨死体験」であって「死」そのものではない。それぞれの特性、それまでの生き方に相応したものであって、至福体験がだれにでも訪れるものなのか、それはわからない。
  ▽
知り合いの僧侶は、心筋梗塞臨死体験をした。そのとき、真っ暗になり、真っ暗な世界に黒い雲がもくもくもくと湧いてきたという。「ああ、残念」という思いをしたという。

かれは、よみがえったとき、このままではいけない。修行して悟らねばと、ミャンマーに行き瞑想の修行に打ち込んだ。けれども、そんなに打ち込んで悟れるものでもないわけだ。剣道や柔道とは違うからね。
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今年の死亡者数は、おそらく150万人を超えると思う。突然死が増えている。また、これから起こるであろう食料・エネルギー危機、経済の大停滞で、生活苦、先行き不安から自殺する人も増えてくるだろう。

死んでしまえば、そこで現世の暮らしはもうおしまい。来世があるのかないのか。霊界があるのかないのか。それは、至福体験なのか苦しみ続けるのか、転生するのかしないのか、まったくわからない。
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ともあれ「死」というのは、かならず我が身に訪れる大問題。自分は必ず死ぬ、そして相手も死ぬ、そういうみんな死ぬ。なので「やれることは、いまやっておく」という生き方。いまをたいせつにするという生き方でしかないかなあ。

きのう訪ねたA洋品店の奥様と話して、話は盛り上がって、死ぬとは生きるとは、という話しに入ろうとした矢先、あかりが「もう帰ろうよー」とせがむので、そこで終わった。

 

「宝島」のムックで紹介してくれた

「宝島」のムックで紹介してくれた。
昨年すばる舎から刊行された拙著の「過疎の山里に暮らす普通なのに普通じゃないすごい90代」。
「90代を楽しく生きる」という特集で6ページに渡って紹介してくれた。書店に並ぶのは1月30日から。
それになんとまあ、NHKが取材してくれるという。うちはテレビがなくて、NHKまったくみないんだけどね。
NHKのニュースの1コーナー「いまほん」という番組で著者として、1分くらい出るらしい。わざわざ取材に来るのではなくて、ZOOMの取材。
まあこうして、すこしずつじわじわとマスコミにとりあげてもらえるのはありがたいこと。すばる舎の編集と営業力に感謝。

 

村上光照老師の葬儀が昨日だった

村上光照老師の葬儀が昨日だった。
20年くらいまえに伺った話をまとめてみた。
この何十倍と法話があるので、なんとかかたちにしたいもの。
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◎ほんとうの仏道をとことん究めたい
おやじが戦死して、ぼくは母ひとりで育てられた。とことん金がなかった。大学では、山岳部に入って強力(ごうりき)のアルバイトをよくやったよ。着るものといったって学生服しかない。その学生服のまま重い荷物を担いで、よく山に登ったもんだ。おかげで体が鍛えられたよ。
大学では物理学を学んだ。学問として物理学は、とてもおもしろいものだった。時間を忘れて打ち込んだものだ。
でも、「ほんとうの生き方ってなんだろう」。そのことをずっと求めていた。
世渡りのこと、身過ぎ世過ぎのことなど、一度も考えたことはなかった。
坐禅に出会う
坐禅に出会ったのは、大学二年の時だった。
ある日、坐禅していると、心境がスーっと澄んでね。まことに静かな世界になった。
あらゆる生きものの苦しみや痛みが、わがごとのように感じられたんだ。なんというか、まるで〝いのち〟からしみ出てくるように感じられてきた。
それから、禅語録の『碧巌録』を読みはじめた。この書物は、難解なことで有名だ。先輩たちは、いくら読んだって分からないよと言う。ところが、読み出したらこれが、おもしろい、おもしろい。手にとるようにわかりだしたんだ。
「なるほど。禅とはこういうものか」
すこし悟ったような気分になったものだ。
◎澤木老師に出会う
ところが、後に澤木興道老師に会うと、そんなものは
「小悟の世界」だった。
ほんものの悟りとは、そんなものじゃあない。
ほんものの悟りとは、如来の光が宿って、そのはたらきでものが考えられ、自然と体が動かされる。いわば、池の水が澄みきってすべてを映すようなものだ。
そのことは、まさに道元禅師が教えられたことだ。そのことを、のちに澤木老師によって知った。
「この師に接して、ほんとうの仏道を、とことん究めたい」
当時、澤木老師は京都で接心をされていた。そこで老師のおられる京都に行こうと思い、名古屋大学から京都大学の大学院に行った。
大学院では、中間子論でノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士のもとで素粒子論を学んだ。世界一の研究者のもとで学べることは最高の喜びだった。でもいつも
「学問はいつでもできる。まずもって生死の問題を明らめねばいけない」
と思っていた。だから、もう徹底して坐禅一筋だった。
澤木老師の行くところ、どこにもついていったよ。
苦しいも眠いも痛いもない。ひたすら坐禅に打ち込んだよ。
◎学生のまま出家してしまう
大学時代は、山奥の寺を借りて暮らしていた。そこで論文を書いて、悠々と坐禅するという暮らしをしていた。食べ物といえば、玄米ご飯に、農家からもらってきた大根の葉っぱがおかずだ。たったそれだけだが、まったくからだの調子がいいんだ。ほんまもんの食事は、からだが知っていて満足するんだなあ。いまでもぼくの食生活は、そんなものだ。
母親は、ぼくが大学の教授になることを期待していたけれども、ぼくは学生のまま出家生活に入ってしまったよ。
◎どこに行ってもそこが道場になる
そんなことで出家してから、もう五十年あまりになる。
九時に寝て二時に起きて坐禅する生活だ。
「一処不住」で、定住する寺などはない。
持ちものといえば、リュックひとつだ。いつもリュックを背負ってどこにでも出かけていく。
どこに行っても、ぼくにはそこが道場になる。
そうなると、行ったところ行ったところで、どんなところでもありがたいんだ。
◎まことの道をほんとうに楽しんでひたりきる
ほんとうの自分を確立していないと、人がどうした・どう言ったで、ふらふらする。
信仰とは、「ああして下さい、こうして下さい。お願いします」と自分の欲心で神仏にお願いすることじゃない。
まことの道をほんとうに楽しんでひたりきるのが、信仰なんだ。
たましいの喜び、たましいの楽を求めなくてはいかん。
仏法ってね、生まれもっている真実を求めるところにあるんだよ。
この自分を、このたましいを、この生死の問題をどうするんだ。そこを究めていくことだ。
死んだら空っぽなの? 
さあ、どうするんだ!
——このぎりぎりの問題、大疑団を解決しなくちゃいかん。
うまく世渡りして生きていこうったって、それがなんになる。
金があっても、地位が高くても、なんにもならん。
みんな真っ暗やみの無明の世界にいる。迷いから迷いへと輪廻しているんだ。
その輪廻を根本的に断ち切るのが、仏法なんだよ。
なんぼ知識をためようが、それは所詮は「分別智」の世界なんだ。
ほんとうの智慧からみたら、役に立たない。
仏さんはね、自分一人のために法を説いて下さっているんだ。
仏さんに守られて、導かれて、やっと自分はここに存在するってこと。
でも、みんな外ばかりみているから、後ろから押してくれている仏さんの手に気がつかないんだ。
妙法蓮華経に照らされる
きょうは、「南無妙法蓮華経」について話そうと思うとる。
「南無」とは、仏さんの力に全部おまかせして、一生を預けきってゆくことをいうんだ。
自分を仏さんにぜんぶ差し上げてしまうということ。
そうすると、仏さんのほうから、自分を通して働いてくださるんだよ。
「蓮華」とは、純白の中の純白の光明。穢れのない、己れのない、澄みきった世界……。
一筋に自分をむなしくして、仏さんにゆだねきった坐禅のことをいう。
大悟とは、心が澄みきって己れがなくって、仏さんのほうから照らしていただくことをいう。
自分の愚かしさ、人間世界の愚かしさに気づかせていただく。己れの力ではないということを、はっきりと受けとらせてもらう。
その途端に、ぐぐっと大安心の世界に入るんだ。
すると、大悟徹底して過去世、現在世、未来世の三際をいっぺんに断ち切る、つまり輪廻を断ち切ることになる。
「一超直入如来智」といってね、凡夫のままに、いっぺんに仏さんの位に飛び込むよ。そういう坐禅が、妙法蓮華なんだよ。
そうなると、妙法蓮華を軸にして、すべてが回転していく。
そういう生活の筋道、真理の道行きを「経」という。
こういう世界を道元禅師さまは、お伝えになったんだ。
仏法は、自分をみることに尽きるよ。人を責めたりする暇なんてない。自分をよくみたら、むさぼる、腹たてるという煩悩ばかり。自分みたいなつまらん者に、いったいなにかできるかってことに、やっと気づく。
自分が人を助けるんじゃない、助けさせて頂けるんだ。
「ああ、ありがたい……」。そうして、「南無妙法蓮華経」。
おもわず口に出るのが、ほんとの南無だよ。
どうしようもない自分が妙法蓮華経さまに照らされ、生かされ、なにかさせて頂ける。それが、南無妙法蓮華経ということなんだね。
◎どこにおろうが、そこが安楽国となる
「学道の人は最も貧なるべし」
と、道元禅師は言われた。ものをたっぷりもって、ゆっくり設備を整えて、それから坐禅でもしましょうか。そんなものじゃあない。
人間はおもしろいね。ものをもつほどに腐ってくる。ものがなければないほど、ぎゅーっと引き絞られて光り輝くよ。
村の中に 森の中に
はた海に はた陸に
阿羅漢 住みとどまらんに
なべてみな 楽土なり
            (法句経)
与えられたところが、すべて道場。
どこにおろうが、そこが安楽国となる。随所に主となる。
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものにわたしはなりたい
             (宮沢賢治
ほめられもしない、苦にもされないデクノボーでいいんだ。
自分は一切ないのが、本来の坊さんのありようだよ。食った食わんじゃというのは、世間のこと。布施を頂くのは、仏さんに頂いて、仏さんのために使わせて頂く。衆生のために、坐禅の体を支えるためだけに頂く。
そういう心になれば、なべてみな楽土となるんだ。

 


伝説の禅僧 村上光照さんが亡くなった

1月22日に村上光照さんが亡くなった。昨日が通夜、本日が27日が葬儀だそうな。お会いしてから、20年余になる。
 ▽
もしや、この方が? と思って声をかけた。
──村上光照さんですか?
「はい〜、村上ですぅ〜」。
穏やかで悠然とした声の響き。なんとも人なつこい笑顔がかえってきた。
新宿南口公園。僧侶が、噴水の水を飲んでいた。地べたに座ってフランスパンをかじっている。「一所不住」で、リュックを背負って全国を行脚している僧侶がいると聞いていた。
 ▽
法華経のことやら音楽談義をしたのだった。
「ほうほう、あなたは詳しいねえ」
よく聞いてくれるので、ぼくは調子にのって話してしまう。
「人間、有名になったらあかんのですよ。ぼくはなるだけ、世に出ないように出ないようにしとります」
「どれ、でかけましょうか」と、もうひとりのお坊さんに声をかける。目が見えない方らしい。その方が、カーキ色の帆布でできた重たいリュック村上さんのかつぐリュックに手をかける。
そうして、お二人で、夕陽を背にのんびりと歩いていかれた。
──ははあ。こんな坊さんが、まだいたんだなあ。
余韻が残る出会いだった。
 ▽
何年か後。秋葉原の駅でばったりと、出逢った。
「おお、池谷さんか。うまいコーヒーがあるよ。そこで話をしませんか」
というので、駅の上にあった焙煎コーヒーの店で雑談した。
「ぼくは寺もありません。なんにも持ち物がありません。それで、ぼくはリュックひとつで、全国を行脚しとります。
でも、みながウチへ来て下さい、どうぞ、ウチにいて下さいという。
なんにもないっていうことは、なんでも持っているみたいなものだねえ。
どこに行っても、そこが道場。行ったところ行ったところで、ありがたいんですわ」
 ▽
それから数年後。南伊豆に遊びに行ったときに、──もしや村上さんがおられるかも、と思い、松崎の草庵を訪ねてみた。
幸いなことに、数日前に全国行脚から戻ってきたところだった。
小さな木造平屋の、粗末な草庵だ。床の間には坐禅姿の澤木老師の写真が掲げてあった。
近所のおばちゃんたち二、三十人が、草刈りの手伝いに来ていた。そのあと、みんなでワイワイと楽しそうに食事会。山菜の天ぷらをあげていた。わたしもまぜてもらった。しばしお話をうかがう。
いつものように「ほぅもほぅ」と聞いてくださる。笑顔、悠然さ、のんびりとした落ちつき、あの遊び心の楽しさ……。村上さんの声の響きの中にいると、ほっとしてくつろげてしまうのだった。
「人間あくせくせんでもどうにか生きていけるんじゃなかろうか」という安心感が得られるような気がした。
「仏法は餌食拾いの方法ではない。自分の本質がいきる生き方である。道のためには生命を全うしなければならぬが、道のために食えなければ飢え死にするまでのことである。」とは村上師の師匠の澤木老師のことばだ。
 ▽
村上さんの月に一度、供養に行かれるお寺に行ったことがある。
お経を読まれる前に、四方に向かって目に見えない神霊に供養を捧げる。
きっといろいろな心霊体験をつかんでおられるのだろう。
そして、お経の読み方に驚いた。「た しかにそうだ! まさにその通りだ!」という大確信の読み方。
法華経』を中心によまれていたが、自分で心から納得してよんでいるという感じ。
お経にこんな読み方があるのかと、目が覚めた心地がした。
 お布施のいただき方もすごかった。仏前で封筒に 入ったお布施を頭上に掲げて、なんどもなんども礼拝する。お布施とは自分がいただいたものではない。仏さまがいただいたものだ、というような姿にみえた。
 ▽
「池谷さん、歌舞伎にいかんかね」
あるとき、声をかけられた。信徒の方からいい席の券をいただいたそうだ。猿之助の歌舞伎だった。かなりいい席ではじめて歌舞伎を堪能した。いつもは、一幕物ではるか遠くから見ていたので。
玄米と大豆の炊き込みと菜っ葉だけのお弁当も頂いたのだった。それから、銀座の喫茶店で話をしたが、かなりハイペースで自分の世界に浸っているような感じで、ただただ聞くだけであった。やりとりができないなあと感じた。
 ▽
なにしろ伝説の禅師である。サンガという出版社に、村上さんの本の企画を提案した。
村上さんに公開インタビューしながら、それを本にするというかたちだ。
そんな提案をサンガの社長は受けてくれて、村上さんとのやり取りとなった。
しかし、話は次から次へとあらぬ方向に行ってしまう。
量子力学の話から、和算の話(何しろ京都大の大学院で理論物理を学んでいた。湯川秀樹の研究室にいた方だ。数学もものすごく詳しい)。それからヨハネの黙示録から、西郷南洲の遺訓。次から次へと法華経世界の発露のようなイマジネーションの爆発であった。
ただ、ちと認知障害が入っておられた感じで、コミュニケーションは難しいものがあったが、まとめ方によってはじつに面白い話になるなあと思った。
 ▽
結局、出版社の方も、ゴーサインが出ず、別の出版社も最終的にはうまくいかず、本にはできなかった。
すばる舎の方から「本にしましょう」という声がかかったものの、一緒に行く時、ちょうど村上さんがデイサービスに行く日にちと重なり延期となった。それから、伸ばし伸ばしで実現できなかった。
とこか出版社とご縁ができたら、本にするだけの取材した音声はたくさん持っている。

 

 

お寺で修行したいんだけど

「池谷さん、おひさしぶりです」
──いやあ、おひさしぶり。山形の蔵王にいるんじゃ、雪がすごいでしょう。

「そうなんですよ、あいかわらず。ところで、池谷さん、わたしも85歳になりましてね。もうお寺を人に譲りたいんです。息子二人は、お寺なんかやらないといいます」

──そうでしたね。息子さんはたしか獣医をされていたし、蔵王のてっぺんのお堂なんかにいても食っていけないし、いらないと言うでしょうね。

「それでじつは、あとを継ぎたいという30代の人がいるんです」
──ほぉ、それはよかったじゃないですか。
 ▽
「でも僧侶の資格がないので、どこかに修行に行かなくちゃ。それで、池谷さんにどこがいいのか教えてもらいたいと思って」

──それなら、Oさんが修行した善通寺はどうですか(あっ、途中でやめちゃったのか)。

「はい、それで先方に聞いてみたんですが、ことしは、弘法大師御誕生1250年記念大法会があるので修行僧は受け付けないというんです。どこかいいところないですか?」
 
──う〜ん。わたしは、修行道場って体験してないから、どこがいいとはおすすめできないんですね。なにしろ、真言宗って十八本山ありますからね、それぞれ厳しさ、ラクさいろいろですよ。

「どこがいいでしょうかね?」
──ぼくが、外から観察していると、成田山。そして、泉涌寺なんていいじゃありませんか。規模も小さくて面倒見良さそう。なにしろ皇室の御寺でしね。修行は随心院

また、信貴山もいいと思うし。まあしかし、費用面、面倒見のよさなど総合したら、成田山がおすすめだけど。
それから、もちろん高野山もいいし、智山派は智積院豊山派は長谷寺と思ったけれど。
 ▽
──宗派によってお坊さんの資格を取るのに、費用や厳しさ、時間に差があるんですよ。

臨済宗などは二年間、曹洞宗は一年。永平寺は厳しいみたいですね。高野もたしか専修学院は一年間。これが天台宗だと、六十日間。日蓮宗だと五十五日間かな。

まあ、ともあれ、あとを継ぎたいという本人からぼくのほうに電話ください。どこまで本気かにもよるし。費用面のこともあるし。

それよりなにより、Oさんのところは、宗教法人の資格取ってないから、ちゃんとしたお寺の照会がいるわけで、まずは地元のお寺にて弟子入りしてからじゃないですか。

そんな話をしたのであった。(以下続く)

 

いきなりトップギアで話をする。核心から話し出す。

だいたいぼくは初対面から、いきなりトップギアで話をする。核心から話し出す。

自己紹介とか、今日は寒いですね、ちかごろはどうですか、なんていうのは、そのあとになる。いきなり試合が始まって、必殺技が繰り出されて、しばらくして始まりのゴングが鳴るみたいな流れだ。
 ▽
先日、県の役人の方が来訪。ほとんど自己紹介なし。いきなり、「みてもらいたいところがありますよ」と、「冒険遊び場」と「家づくりしている「そば処一休」に連れて行った。帰宅して、薪ストーブ焚いてから、やっと落ち着いてのお話。

薪が湿っていて、うまく火がつかない。部屋の中は濛濛とした煙であった。

関係人口についてのテーマとは聞いていたので、いまの課題としてポイントはメールしておいたので、言いたいことはそこに述べておいた。まあ、行政に期待するってことは、ほとんどないんだけれど。現場の声、現場はみておいてもらいたいので。
 ▽
ちょうど、あかりを「冒険遊び場」から連れて帰ることになったので、あかりと県の役人三と一緒にドライブ。

あかりは、おとうちゃんの影響を受けているので、初対面の人でも物怖じしない。なれなれしい。

「おじさんたちは、どんな仕事しているの?」
─うーん。説明が難しいなぁ。
──この人たちはね、山里でいろいろな暮らしをしている人に会うために来たんだよ。

「へー、そうなんだ」

トンネルに入ると、しばらく話が止まる。するとあかりが
「話がいま止まっているよね」。
また、話をしだして、しばらく間があく。するとまた、
「話がいま止まっているよね」という。もっと話を進めろと言いたげだ。それが、おかしかった。

あかりは、体当たりのジャーナリストになっていくかもしれないなあ。いきなり現場に出て、当事者と出会って聞き出していくような仕事。

 

関係人口と冒険遊び場 

①移住者の子育てはたいへん。地縁・血縁なし。保育所なし。学童保育は毎日やっていない。なにより子どもの絶対数が少ない。子ども同士、遊ぶ機会が少ない(気田小の1年生は6人)。ゆえに親に負担がかかる。

②まちなかの子どもは自然を求めている。焚き火、水遊び、どろんこ遊び。まちなかで焚き火なんて絶対にできない。

③山里で「子どもの冒険遊び場」があればいい。なにしろ遊ぶ場所はたくさんある。山里は子どもはが少ない、まちなかはたくさんいる。両者が混在となって遊ぶ。親同士、子ども同士が親しくなる。あちこちで、そういう場作りをしようという家族が、少しずつ増えてきている。

④うちの敷地で行われた遊び場には、まちなかから40〜50名余が集った。ニワトリの解体から調理(7月)、イノシシの丸焼き(11月)など。

⑤5月に開催された「春野人めぐり」において、小橋家での集いには、延べ150人くらいがきた。年末の大晦日、西田夫妻が、廃校になった熊切小で開いた時、30名余の親子が集った。廃校の活用法としても意味がある。

⑥子ども同士、親同士、親子同士が親しくなっていくメリットは大きい。お互いにサポートしやすい、されやすくなる。「いま動けないので、子どもを連れて行ってほしい」「お互い様だから、いいですよ」という関係。

⑦まちかの人は、ちょくちょくやってきて友人もでき「行きつけの田舎」のようになる。

⑧移住での最大のポイントは、「そこにどんなコミュニティがあるか、どんな暮らしがあるか」がわかることだ。

⑨やがて「いい空き家があるよ」「あそこなら、過ごしやすそう」というように、地域の実情もわかってくる。また、地域の人も安心する。そこから二点居住、さらには移住の可能性も出てくる。

⑩関係人口、移住者が増えると、山里に活気が出てくる(もちろん軋轢も出てくるが)。
 ▽
県の職員(政策推進局)が3名来訪。
わたしが、著書のことで読売新聞に記事として掲載されたのがきっかけできてくれた。「関係人口の創出」というテーマで、いろいろなところを訪ねているという。ということで、上記のポイントをメールしておいた。

来られた時、西田さんのところで、ちょうど「はるの冒険遊び場」をやっていたので、案内する。そして、自分ひとりで家を4棟建てた「そば処一休」さんも案内。いろいろな人材、活動している場があることをみてもらう。
 ▽
あと、これからの課題として「学校なんか行きたくない」という子どもが増えてくる。学校に行かないことを選んだ小中学生は20万人を超える(過去最多。8年連続で増加。前年比25%アップ)
この流れはますます加速する。もう時代は大きく代わる方向に舵は切られている。

選択と集中」で、地方の過疎地は切り捨てられ。東京一極収集から、地方都市に若者の雇用を創出する。まちなかの賑わい戦略、過疎地はコンパクトシティ。それが、地方創生会議の主題だったと思うが、コロナ禍で流れは変わってきていると思う。さて、それをどうするか。

そんな話をしたのであった。

1月だけで10本申請した 助成金千本ノック

助成金千本ノック」
1月だけで10本申請した。
内容はわりと同工異曲。微妙に変化をつけている。
採択されたら、そこでスタートすることになる。

浜松市中山間地域まちづくり事業
②ベネッセこども基金:子どもをド真ん中に据えた多世代交流広場
③アーツカウンシルしずおか:山里まるごと アートフル空間
④ソーシャルグッド:私設図書館による交流広場
⑤青少年の自己探求支援基金:ZOOMを活用した「自己探求AtoZ」の制作
⑥子どもぬくもり基金:子どもをド真ん中に据えた多世代交流広場
東京海上日動キャリアサービス: 高次脳機能障害者の出版と講演の企画
⑧はままつ文化振興財団:春野の山里 まる一日 歌と演奏・子どもたちの遊びデー
⑨冠婚葬祭互助会:子どもをド真ん中に据えた多世代交流広場
⑩WAM助成(補正予算事業):コロナ禍における生活困窮者、ひきこもり状態にある者及び生活困窮家庭の子ども等の支援に係る民間団体活動助成事業

いま進行中は、次の2本。
FSC認証材 新しい生活様式支援天竜材活用事業
浜松市中小企業等グリーントランスフォーメーション支援補助金

2月の予定。ノエビアグリーン財団、大塚商会ハートフル基金、杉浦記念財団、物価高騰緊急対策事業補助金、多文化共生・国際交流推進費助成金など。

きょうもはるの冒険遊び場

きょうもはるの冒険遊び場。あかりを連れて行った。西田さん夫妻が主催。男の子が多くて、戦いごっこもパワフルだぁ。みんなもう小学校なんてやめちゃった。釣りやったり冒険遊びしてる。
午後から県から役人の方が、関係人口を増やすというテーマでわがやに来訪。ここに連れて行こうかな。論よりも具体的な実践例。

 

ナマで話を聞くというのは、映像とは違う。いきいきとした体験として響くものがある。

東京に40年暮らしていたのに、いまおもうと随分ともったいなかった。大学はとんど授業に出なかった。サラリーマン時代は、仕事ばかりで余裕がなかった。毎日、最終便で帰るような日々があった。土日も出勤とか。電子部品と磁気記録媒体のメーカーだったから、文化的な話はあんまりなかった。

会社をやめてフリーになってから、時間だけは余裕が生まれた。
国立市に20年くらい暮らしていた。公民館も活発。ちかくに一橋大学や国立音大、そして、津田女子大や武蔵野美大農工大も東京外大もある。しかし、そこにいくことはなかった。
 ▽
あるとき、ふと公民館に行くと、内山節さんの講演会があると張り紙があった。
ふーん、哲学者って、どんなひとなんだろう。ひとつ参加してみるか。
出かけてみた。小さな集会所で聴衆は30人くらい。
内山さんが地味に入ってこられて、ぼそぼそと話しをされる。

うーん、つまらないかもしれないと思いつつ、よく聞いていると深い味わいがある。お、田舎暮らしをしているのか。それで、大学で哲学も教えている。田舎では、みんなで餅つきするとか、帰宅すると玄関前に野菜が置いてあるとか、まあそんな話に興味が湧いてきた。いまおもうと、これが山里に移住するきっかけだったのかも。
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それから、次々と公民館の講座に出た。けっこうすごい講師が無料で公演されていた。しかも参加者は20名くら。ジャーナリストの堤未果さん、「世界がもし100人の村だったら」の訳者池田香代子さん、谷根千の発行者、森まゆみさん。「女性の品格」の坂東眞理子さん。

さらには、一橋大学でもいろいろ講演会があった。2ちゃん時代のひろゆき、数学者の秋山仁義、「バカの壁」の養老孟司さん、ケルン放送交響楽団首席オーボエ奏者 宮本文昭。家から歩いていける距離で、そうしたレベルの人たちが来てくれた。

ちょっとクルマで出かければ、津田女子大。詩人の三宮麻友子さん、アーサー・ビナード多摩美大では、中沢新一小沢昭一の対談が聞けた。これはじつに貴重は楽しいやりとりだった。
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国立音大では、毎月、コンサートに出かけた。無料でホールもコンサートの質も高かった。マタイ受難曲など、ドイツ語の歌詞を字幕スーパーで流してくれたり、いろいろ解説してくれるのもよかった。

やはりナマで話を聞くというのは、映像とは違う。いきいきとしたものが伝わる。体験として響くものがある。人柄のいったんがわかる。

こんなふうにして、せっかく東京にいるなら、公民館や大学など、どんどんと聴講に行けばいいのだ。だが、そんなことがわかったのは、40代も後半からだった。

学ぼうと思ったら。公民館、文化講座にいけばいい。そこには一流の学者、専門家、体験者がいる。大学だって入学しなくても、聴講させてもらえるはずだ。
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まあしかし、東京から過疎の山里に移住して、そういう機会はまったくなくなった。何しろ駅まで往復100キロ。3時間もかかる。気軽に行けない。そして、そういうレベルの高い文化人、知識人は、なかなかやってきてくれない。

まあ、自分ではそういう時代は終わって、暮らしそのものから学んでいく。座学ではなくて、体験から学んでいく。そして、有名とか、文化人とか知識人とかじゃなくて、普通の人の暮らし、人生がおもしろい。日常の暮らしがおもしろいというところだ。

はるの冒険遊び場、きょうで3日目

はるの冒険遊び場、きょうで3日目。あかりは皆勤賞。いくたびに、世代を超えて、年齢を超えていろんな友だちに出会える。ヤギもいる、ニワトリもいる。
みんなで遊んでもらって、夕方、迎えに行くことにした。その間、社宇宙して仕事ができる。なんと、ありがたいことか。
冒険遊び場の隣家の小澤さんと、母親の介護のことなど立ち話。地元の人の理解と協力、とっても大切だしね。

なにしろ7時台に寝るので、起きるのは早いよ。今朝などは2時台だ

暮らしのパターンが変わった。
①あかりの寝かしつけは、これまでずっと妻が担当していたが、妻の手術による療養のため、ぼくが担当している。
②8時には寝かしつたいので、ぼくは7時過ぎには布団に入って待機。だいたい司馬遼太郎などを読んでいると、数ページでストンと眠っている。あかりは後から入ってくる。ので、あかりは、「おとうちゃんをねかしつけているんだ」と言う。
③なにしろ7時台に寝るので、起きるのは早いよ。今朝などは2時台だ。しかし、あかりが「寂しいので起きないで」と、いつもがしっとロックされてしまう。そろそろと布団から出てくるタイミングが難しい。
④なにしろ寒い。薪ストーブを総額1万円以内で抑えて設置した。焚いてしまえば部屋は温かい。湯たんぽとヤカンはこれで温める。だが、広葉樹の木が少なくて杉ばかりなので、あっという間に燃えてしまう。次々と薪割りして補充する。まあこれは、筋トレになるる
⑤U字溝と耐火レンガでロケットストーブを作ったところ、火力がすごい。煮炊きはほとんどこれでやれる。ダッチオーブンが活躍。
⑥ともあれ、早起きは三文の得。仕事は捗る。朝の10時くらいまでが勝負。

子どもとの遊びは、日々、ツール開発。表現開発。

仕事していると、あかりがまとわりついてくる。
──うるさいなあ、あっちいってて。絵本でも読んでたら。

そう言っても聞かない。
仕方がない。一緒に絵でもかくか。

「おとうちゃん、なにかこわい絵をかいて」
──うん。そうだなあ。じゃあ、こんなのは? 

万年筆で黒のインク。龍とか恐竜とか、お化けみたいなのを描いた。

その絵と水筆(筆ぺんで、水が出てくる)をあかりに渡す。
万年筆のインクだと、描いた後でも水筆でぼかすことができる。
それがなかなかいい味わいとなる。

あかりはせっせと水筆で線をぼかしたり、重ね塗りしたり。

「もっとかいて」というので、絵本をもってきて、それを参考に、はいキツネ、オオカミ、シカ、コブラ、キリン、ラクダと次々と描いては、あかりに渡す。あかりは、それをぼかしたり塗り込んだり。めちゃめちゃにしたり。わりと楽しんでいた。

しばらくそれで一時間くらい遊んでいた。

「勉強しなさい」とか「九九は言えるようになった?」とかは、やはりおもしろくはないだろう。

万年筆と水筆。このツールで、なにか展開していくかもしれない。
子どもとの遊びは、日々、ツール開発。表現開発。