過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「それにしても」などという表現を使えるようになったか

あかりは学校に行くのはやめた。ので、いつも家にする。
しかし、そうなると賑やかすぎる。

おとうちゃんは編集の仕事、おかあちゃんは事務とNPO法人やら一般社団法やらの決算で忙しいのだ。

あかりは、ほっておかれる。すると、「みてみてー」「あそんでー」「どうやったらいいのー」とまとわりついて、仕事に手がつかない。

「ええーい、うるさいなあー」とどけると、またやってくる。それを繰り返しているうちに、やがて取っ組み合いのプロレスになる。泣き出す。仕返しに蹴っ飛ばしにくる。

とはいうものの、あかりは午前中はダンボールの工作に打ち込んでた。そうして、つぶやいていた。

「それにしても、きょうはお父ちゃんとおかあちゃんは、いつになく喧嘩してないねえ」

──「それにしても」などという表現を使えるようになったか。お父ちゃんは感心し笑えた。

妻が言う。
──おかあちゃんとおとうちゃんは、感覚が違いすぎるの。

「そうだよねー。わかるわかる」
あかりは、つねにおかあちゃんの味方だ。

「それにしても、どうしてあかりが生まれたの?」
──それはねえ。神のはからいってもんだよ。

「おとうちゃんとおかあちゃんは仲がよかったんだ」
──そうだね。最初の頃はね。いまでも仲が悪いわけじゃないよ、いろいろ意見をお互いにバンバン言うので、衝突があるってワケだね。

「でも仲良くしてて子どもが生まれるって、不思議じゃないの」
──うん。そこがまた不思議なことでね。まさに、神様のはからいってもんなんだよ。

あかりがいるおかけで、おとうちゃんとおかあちゃんは、幸せに暮らしているし、学ぶことがいっぱいあるので幸せってことだよ。

小1にして登校をやめて自宅学習を選択したあかり。

小1にして登校をやめて自宅学習を選択したあかり。
そうはいっても、親としては、学習の成果、進捗を管理する必要があるので、Googleスプレッドシートを作成して記録している。
スプレッドシートに学習の概要、計算カードの速さの管理、読書記録などをつけている。百マス計算も始めた。かかった時間などを記録している。
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学校としては、不登校のあかりが、どういう暮らしをしてどういう学習をしているのか、見守る責任があるという。
ならば、Googleスプレッドシートを共有してやりとりしましょうということになった。先生も書き込んでくれている。
自宅学習児童の日々の管理と学校とのやり取りは、こうしたGoogleクラウドで共有しながら、やりとりしていくというひとつの試み。
また、担任の先生は、週に一度訪ねてくれて、プリントや学校の行事のことを話してくれる。あかりと親身になってやりとりしてくれる。あかりも、ぴんぽーんと呼び鈴がんると、だーっと走って先生に、挨拶している。
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この先、どうなっているのかわからないが、あかりは、楽しそうに元気いっぱいに暮らしている。
親としてもそれに付き合うのは、骨が折れるが仕方ない。
きょうは台風が来なければ、浜名湖畔でのアート・クラフト展にみんなでいくつもり。



 

小1にして登校をやめて自宅学習を選択したあかり。

小1にして登校をやめて自宅学習を選択したあかり。
そうはいっても、親としては、学習の成果、進捗を管理する必要があるので、Googleスプレッドシートを作成して記録している。
スプレッドシートに学習の概要、計算カードの速さの管理、読書記録などをつけている。百マス計算も始めた。かかった時間などを記録している。
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学校としては、不登校のあかりが、どういう暮らしをしてどういう学習をしているのか、見守る責任があるという。
ならば、Googleスプレッドシートを共有してやりとりしましょうということになった。先生も書き込んでくれている。
自宅学習児童の日々の管理と学校とのやり取りは、こうしたGoogleクラウドで共有しながら、やりとりしていくというひとつの試み。
また、担任の先生は、週に一度訪ねてくれて、プリントや学校の行事のことを話してくれる。あかりと親身になってやりとりしてくれる。あかりも、ぴんぽーんと呼び鈴がんると、だーっと走って先生に、挨拶している。
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この先、どうなっているのかわからないが、あかりは、楽しそうに元気いっぱいに暮らしている。
親としてもそれに付き合うのは、骨が折れるが仕方ない。
きょうは台風が来なければ、浜名湖畔でのアート・クラフト展にみんなでいくつもり。



 

創価学会=公明党の活動について

「学会と公明党に対する“政教一致批判”は、根拠がない」というのは、次の創価学会会長と目される谷川茂樹氏の発言。聖教新聞(2022年8月22日号)から、池谷が抜粋。
①「政教分離」の原則(憲法20条)は、国家と宗教の分離、国家権力と宗教(宗教団体)の分離を定めている。政党と宗教団体、具体的には公明党創価学会との関係性の分離などではない。
②宗教団体に属する国民一人一人が、選挙活動を含む政治活動を制限されるならば、「表現の自由」(憲法21条)を侵害する。「法の下の平等」(憲法14条)にも反する。宗教を信仰するが故に不利益を受けることになり、結果的に「基本的人権」が大きく損なわれる。
③「憲法の番人」と呼ばれる内閣法制局長官の政府見解(94年10月12日)。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」(憲法20条)の「政治上の権力」とは、国や自治体の持つ「統治権」(課税権、裁判権、公務員の任免権など)に限定され、政党が持つ“政治的な力”は含まれない。
④すなわち、宗教団体である創価学会が支持する公明党が“政治的影響力”を持っても、「政教分離」には全く抵触しない。  
⑤宗教団体の政治・選挙活動についても、“「表現の自由」(憲法第21条)の一環として、宗教団体が政治的な活動をするのは尊重されるべき”と明快に答弁している。
⑥宗教団体の主体的な政治・選挙活動の一環として、団体の施設を政治・選挙運動に使用することや、それに伴う事務費用を宗教団体が自主的に負担することも憲法上、何ら問題がないことが改めて確認された。
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以下は、池谷の疑問。
①“「憲法の番人」と呼ばれる内閣法制局長官の政府見解”とあるが、はたして内閣法制局は「憲法の番人」であるのか。
内閣法制局長官は、行政府が任命するのだから、行政の憲法違反、逸脱に対して歯止めはかけられない。内閣の補助機関という性格上、「内閣の守り役」「内閣の三百代言」とも評されるわけで、「憲法の番人」とは疑わしい。
②政府見解が①〜④としても、⑤以降も内閣法制局長官の公式発言であるのかどうか。谷川氏は、⑤以降も内閣法制局の発言としているような表現だが、はたしてそうか。
谷川氏の引用した内閣法制局長官の政府見解(94年10月12日)のデータが、見つからない。ソースが分かる人があれば教えてもらいたい。
③確認したいのは、次の2点。はたして内閣法制局が述べたことなのか。政府の公式見解なのか。
「宗教団体が政治的な活動をするのは尊重されるべき」ということ。
さらには「教団体の主体的な政治・選挙活動の一環として、団体の施設を政治・選挙運動に使用することや、それに伴う事務費用を宗教団体が自主的に負担することも憲法上、何ら問題がない」こと。
④とくに、「教団の施設を政治・選挙運動に使用」「それに伴う事務費用を宗教団体が自主的に負担する」ことは、憲法上、ほんとうに問題がないのか。
⑤たとえば、創価学会が、創価学会の各地の会館をつかって、信徒を集めて選挙活動(票取りの指導、票の集計、候補者の挨拶、ビラ張り、ウグイス嬢などの手配)をしても、憲法に違反しないのかどうか。
⑥たとえば、宗教法人には固定資産税等は課税されない。宗教法人は、公益性があるからだとされる。
非課税規定が適用されるためには、当該土地建物の所有者が、宗教の教義を広め、儀式行事を行い、及び信者を強化育成することを主たる目的とする宗教団体であること、とされる。(地方税法348条2項3号、宗教法人法3条及び同法2条)
創価学会の会館などは、あくまで宗教の教義を広め、儀式行事を行い、及び信者を強化育成するためにある。
宗教活動とは無縁であるべき政党の選挙運動や政治活動や事業活動に使用されている実態は、違法ではないのか。

いかに創価学会が、他の宗派に対して敵対的であるのか

宗教と政治について、統一教会のことが連日、マスコミで賑わっている。
やはり大きな問題は「公明党創価学会」である。

公明党を支えているのは、創価学会。というよりも「創価学会の政治部」が公明党である。

「ともに日蓮大聖の教えを奉じ、王仏冥合をめざす私どもの同体異名の団体であります。(中略)永久に創価学会公明党は、一体不二の関係で進んでいこうではありませんか。」(「新時代の指導原理、王仏冥合池田大作氏「大白蓮華」昭和40年9月号)
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創価学会は、1955年4月第3回統一地方選挙に文化部員を出馬。当時はまだ政党組織がなかったため、無所属で創価学会が推薦というかたちをとり、結果、一人の都会議員と一人の市会議員が当選した。

創価学会が政界に進出する目的は、日蓮正宗(当時は=創価学会)の国教化、国立戒壇の建立であった。

「大折伏の結果 国を挙げて日蓮正宗の信徒となってこの吾が国から一切の邪宗教群を一掃し終った後に、国会の議決によって決定されなければならない」(昭和30年4月24日の聖教新聞の社説)

「われわれが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである。」(昭和31年参議院選挙の際、創価学会第2代会長 戸田城聖の講演)

「最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは必然でなくてはならぬ。……それには同志をたくさん議会におくらなければならない。」
国立戒壇建立のためには関所ともいうべき、どうしても通らねばならないのが創価学会の選挙なのでございます。」(昭和34年の参議院議員選挙の際、池田大作氏の講演)
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やがて公明党は、言論出版妨害事件を起こした。それは、藤原弘達著「創価学会を斬る」の出版をとりやめさせるように、公明党を通して当時の自民党幹事長 田中角栄を通して圧力をかけたのだ。そのことが藤原弘達氏によって暴露された。

世論は創価批判の嵐となる。池田大作氏の国会喚問にも至らんとした。そこで、池田大作氏は「言論出版問題」を反省し謝罪する。「国立戒壇」の否定と「政教分離」の方針を表明した。(昭和45年5月3日の総会)
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しかし、とはいうものの実態は、いまでも公明党=創価学会である。
創価学会の活動のメインは、選挙活動にある。選挙活動を通して友人を拡大し、やがては布教に結びつけていく。

創価は選挙に強い。
それは、「統監」の力だ。あらゆる地域、組織において、座談会やら男子部会やら、すべての出欠が本部らに報告され管理されるから、全国の隅々まで会員の勢力は把握されている。

どのエリアで創価が強いのか、数値として把握される。そして選挙の結果、細かいエリアごとに、投票率が出る。データが次に生かされる。

小選挙区制において、死に票を減らし、当落線上の候補に力を注ぐという配分ができる。そんな微細にコントロールができるのは、創価学会のみであろう。創価学会の投票管理の力によって、自民党は支えられているということもできる。
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さて問題は、公明党=創価学会が、権力を持つとどうなるのか。どういう危険性があるのかを考えてみたい。

宗教は「絶対的な価値観」をもつ。自分の信ずるものは絶対だ、自分たちだけが正しい、他の存在は認めない。それが宗教(団体、組織)の本質的なところにある。とくに創価学会のような、いわば「一神教」的な宗教は、それが顕著である。

ゆえに、宗教団体が権力と結びつくと、他の宗教に対して、弾圧したり、寛容な態度を取らなくなる。西洋の歴史においては、王権よりもローマ教皇の力が強くて、政治まで采配していた時代がある。異端審問、魔女狩りもあった。
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いかに創価学会が、他の宗派に対して敵対的であるのか。自分たちだけが唯一の正しい存在であるのか。その体質をみてみよう

「敵は邪宗教です。邪宗教は人々を地獄に落とす。(中略)一切の不幸の本源は邪宗邪義にあり(中略)邪宗撲滅の大精神を精神として、今、再び門下生一同は、邪宗撲滅に猛然と襲いかかっていきたい。」(昭和35年池田大作氏の第三代会長の就任挨拶)

「安保改定に賛成するか、反対するか、別に御書(=日蓮が書き残した文献)に書いてないんです(笑い)。……それよりか、もっと本質的に大事なことは、邪宗改定であると叫んでおきたいのであります。(大拍手)」(昭和35年6月4日付聖教新聞
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聖教新聞(日刊、公称550万部。日本で第2位の発行部数)の「寸鉄欄」を示す。この欄は会員の間では、池田氏が自らが書いていると信じられている。

「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰で野垂れ死ぬまで攻め抜け」
「竹入・山友ら反逆者は皆生き地獄。増上慢で狂った提婆「現身に阿鼻の炎」
「宗門は崩壊。断罪と仏罰の地獄」

これらは、創価学会に反逆したもの、あるいはたもとを分かった日蓮正宗に向けられている。「竹入」とは、公明党の委員長であった竹入義勝氏、「山友とは」、創価学会の顧問弁護士の山崎正友氏、「宗門」とは、創価学会を破門した日蓮正宗である。
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これらの人に対して、「野垂れ死ぬまで攻め抜け」「反逆者は皆生き地獄」「現身に阿鼻の炎」(生きながら、阿鼻地獄の炎に焼かれる)「断罪と仏罰の地獄」などと、表現が苛烈。いかに、敵対と憎悪、懲罰的な性格をもっているかが見て取れる。

これが、公称550万部も日本で第2位の発行部数の新聞の「一面」に掲載されているのである。

その他、反逆者や敵対者が、いかに病に倒れ、地獄の様相をして死んでいったのか克明に描かれている(目は落ち窪み、頬はこけ、肌はどすぐ黒く、さながら生き地獄の様相を呈すなど)。

そういう性格をもった宗教団体が、権力を持つとどうなるか。そこをみていかねばならない。
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さて最後に、池田氏の言葉。
『すごい時代に入りました、ねー、そのうちデエジンも何人かでるでしょう、ねー、ね、もうじきです、あしたあたり出るから、あのー、あの、みんな、みんな皆さん方の部下だから、そのつもりで」(平成5年8月8日 第69回本部幹部会)

平成5年8月に公明党も参加して細川連立政権が誕生し、公明党が新党に参加する。
公明党から初の大臣が出た(池田氏はデエジンと言っている)。その前日の本部幹部会での池田氏の発言である。

カリスマの池田氏は、創価学会の信徒、公明党の議員、その他関連する企業、各界に配置する人材(官僚、マスコミ、司法、議会、教育、財界など幅広い)に、多大な影響力を持っている。

その人物が意のままに組織を支配するというありようが、しばらく続いている(いた)のである。

 

過疎の山里にいる普通なのに普通じゃないすごい90代  今月出版

今朝、色校正が届いた。
「過疎の山里にいる普通なのに普通じゃないすごい90代」(すばる舎
90代の方が9名、医者と買い物便利屋さんを含めて11名の取材だった。ほとんどが春野町の方である。みなさんとってもユニーク。最高齢は99歳。
来週から、印刷製本。月末には、書店に並ぶと思う。一年以上かかった。やれやれ。すばる舎の編集の水沼さんには、たいへんたいへんお世話になった。

 

信教の自由と反社勢力の問題

①信教の自由は保証されている。どんなにカルト的に見える宗教を信じていようが、会合に参加していようが、法的には問題ない。政治家であっても問題ない。
憲法(第20条)にはこう記載されている。
第1項:信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項:何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ただ、その宗教教団が「反社」的であった場合は、信教の自由を逸脱しているとみなされる。
④「反社」とは「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」と定義され、民間企業においても、この定義のもとに反社会的勢力との関係遮断に取り組んできた。(企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針:平成十九年六月十九日犯罪対策閣僚会議幹事会申合せ)
また、「暴力団対策法」(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)と「暴力団排除条例」が施行され、暴力団及び暴力団と繋がりがある人は「密接交際者」と認定され、警察からの勧告を受けたり社会的に排除されるようになった。
⑤私のようなものでも、銀行口座を開設したり、行政に補助金の申請などをする際に、かならず反社勢力と付き合いのないことを示すための誓約書に署名捺印が必要である。
⑥しかし、行政のトップの内閣総理大臣安倍晋三など)において、「反社」勢力と密接なつながりのあったことが、これまで「桜を見る会」の招待者などで明らかにされてきた。(例)悪徳商法ジャパンライフなど。
⑦しかし、政府は閣議決定において、「反社」の定義はできないと言ってきた。
「政府としては、反社会的勢力については、その形態が多様であり、また、その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであることから、あらかじめ限定的、かつ、統一的に定義することは困難であると考えている。(中略)網羅的に確認することは困難である。」(令和元年十二月十日 内閣総理大臣 安倍晋三
統一教会(現・世界平和統一家庭連合)は宗教団体である。それが、いかなる教義であっても、それを信ずる自由はある。
教祖の文鮮明は、日本はサタンの国であり、天皇に土下座させる。朝鮮半島を支配していた贖罪でもって日本は金を出すべきだ。日本はすべての物質を収拾して、本然の夫であるアダム国家である韓国の前に捧げなければならないと述べている。そんな教えでも、信教の自由はあるのだ。
⑨しかし、統一教会が「反社」であった場合は、問題となる。そして統一教会が、強制や威嚇、詐欺による献金、壺や印鑑など不当に販売してきたことは、「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」にあてはまる。
「宗教を名目に、金員の支出を図るため、その方法・手段を秘して、文鮮明を信じ込ませ、あるいは因縁による害悪を告知して恐怖に陥れて、多額の金銭を献金させることは、社会的相当性を逸脱した不法行為である」と判決(京都地裁2002.10.25)にもある。また、1997年に最高裁が旧統一教会による霊感商法の違法性を認める判決を出している。
さらに、多くの裁判を抱えている、2020年1月9日時点で、訴訟の損害賠償請求の総額は、約40億円。1件あたりにすると、3,000万円になる。
⑩これまでの事件や裁判などで、統一教会の「反社性」は事実といえる。ということで、統一教会という反社勢力とつきあってきたり、広告塔になったり、秘書に使ったりしていた自民党の議員(いやしくも国民の代表である)たちは、問題である。
⑪しかし、それが法的に違法なのかどうか、法的に罰せられるのかどうかというと、難しい。総理や大臣や議員が、統一教会のために何らかの職務権限を行使したという具体的な事実があれば、犯罪の可能性が出てくる。贈収賄罪にあたるのかどうかは、よくわかない。「公務員はすべて国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)のであるから。
⑫だが、世論の指弾を受けて、議員辞職しても、また再選されたら「禊は済んだ」ということで堂々と政治活動するのが、これまでの日本の土壌である。

海を見て、原発を見て、友人の父親の日章旗のこと

山里育ちのあかりは、まだ海を見ていない。まだ暑い。海は気持ちがいいだろう。
「そうだ。海を見よう。福田港(磐田市)に行こう。獲りたてのシラス丼を食べよう」。あかりと妻と康ちゃんと出かけた。
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海に着くと、サーフィンしているのは、ほとんどブラジル人。浜に出ると、打ち寄せる波、打ち上げられたフグやクラゲもいた。カニ、巻き貝などを見つけた。おいしいシラス丼を食べた。あかりはみんな初体験。
「うん、ここまできたなら、浜岡原発を見ておこう。爆発してからではもう見れないし。津波対策で作られた防潮堤も見ていこう」
原発をしかとこの目で眺め、原発資料館で観察してきた。法然上人の師匠(皇円)が龍となって池の深淵に眠っているという桜ヶ池も訪ねた。法然も訪ねている。
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せっかく御前崎に来たのだから、友人の中山さんをお訪ねすることにした。
中山さんが春野に来ていただいたのは7年前で、あかりは赤ちゃんだった。だが、いつもFacebookでやりとりしているので、空白の年月はまったく感じない。
いろいろ興味深いお話を伺った。
ひとつは、浜岡原発原発依存体質の住民の体質、市の行政のあり方。巨大な産廃施設が建つことに反対して、中山さんが先頭に立って住民投票の流れを作って、産廃施設をあきらめさせたのは二年前のこと。
2つ目は、春野の秘境と呼ばれる「京丸」で、中山さんは京都大学今西錦司博士とばったり出会い、以来、山岳のフィールドワークを通しての親しい交流が続いたこと。今西錦司、西堀栄三郎、本多勝一梅棹忠夫など京都大の優れた学者、ジャーナリストの話。
3つ目は、戦死された父親(中山達郎さん)の日章旗が不思議な縁で戻ってきたこと。お父さんの日章旗も見せてもらった。今回は、その話について書く。
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父親の達郎さんが戦死したのは、終戦間際の昭和二十年八月。ボルネオ島(サマンタン島)の奥地だった。飢えと疲労で、マラリアにかかかって亡くなった。遺骨の一部は、戦友がもってきてくれた。
出兵したのは、二度目だった。昭和十九年七月。中国大陸の戦線から戻って、再びの招集だった。
中山さんは父親に会ったことはない。中山さんは母親の胎内にいたのだ。出兵した三か月後に生まれた。
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出兵する際、家族、親類、友人ら百三十人近くの人が日章旗は無事を祈って墨で書き込んだ。
達郎さんが肌身離さず持っていたその日章旗が戻ってきた。51年後のことであった。
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数奇な運命を経た日章旗が、どのようにして戻ってきたのか。
ある時「オーストラリアの知人から依頼され、日章旗の持ち主を探している」という神奈川県の女性の投書が新開に掲載された。日章旗に記載されていた名前から達郎さんの日章旗と判明した。
オーストラリアの女性は国際交流のボランティアとしてオーストラリア・メルボルン郊外のサイルという町で小学校の日本語教師をしていた。その児童の父兄のデビットさんが「父親から譲り受けた日章旗を遺族に返したい」と相談してきたという。
それで、啓司さんはすぐにオーストラリアに渡り、十一月三日の晩、デビットさんから日章旗が返された。
デビットさんの話では、日章旗は軍人だった父親が終戦直後日本兵から没収した品物の中に含まれていたという。
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日章旗を手にした中山さんは、「自分が生まれたことえ初めて父に報告した。父の当時の汗やにおいが染み込んだ布から、直接父の息吹を感じた。ようやく父と抱きあえた」と泣いた。
母親は、「ようやく夫が家ってきた」と日章旗に頬ずりして泣いた。日章旗は、達郎さんの位牌を安置した仏壇に供えられた。
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出かけるたびに、人に出会い、深い歴史を聞かせていただくことになる。
あかりはもう学校には行かないことになったので、週イチは、こうして海や川、山に出かけて人に会うことにする。

 

 

 

 

創価学会の池田大作氏は、いまどうなっているんだろうか。

創価学会池田大作氏は、いまどうなっているんだろうか。
聖教新聞に掲載された池田大作氏の新しい写真はないか」とさがしていた。いくつか出てきた。
2019年〜2013年あたりの写真である。いずれも聖教新聞
遠くからの写真であり表情は全くわからず。
室内なのにサングラスとか、表情、動きがまったく見られない。生気が伝わらない。かなり不自然。
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池田氏創価学会の力とその求心力の核である。そして、創価学会は名実ともに大変な勢力である。日本の政治の動向に大きな影響力を持っている。
創価学会の力をみてみよう。
「信徒数」公称827万世帯、世界192カ国・地域に布教。名実ともに日本で最大の宗教団体である。
「政治力」創価学会の支える公明党は、政権与党。1993年(平成5年に細川連立政権に公明党が参加。2012年再び政権与党入り。以来10年余にわたって政権与党。
ただ、得票数は落ちている。2005年には898万票、今年の参院選は618万票。大きく減りつつあるが、政権与党に食い込んでいる。東京、大阪などの議会でもたいへんな勢力だ。
「資産」あまりに膨大。たとえば、創価大学の資産2,274億円、創価学園の資産1,123億。その他、海外の株式、地方の一等地に会館がたくさんある。今年の3月藤田観光から大阪の老舗結婚式場「太閤園」を創価学会が買った。その額390億円ともいう。池田大作の個人資産だけでも、何兆円ではなかろうか。
「機関誌」日刊の聖教新聞の発行部数、公称550万部。日本で第2位の新聞の発行部数。ちなみに、読売700万部、朝日450万部、日経250万部、毎日200万部、サンケイ120万部。「日刊」というのがすごい。記事の内容は薄いものの配達できる人がいる、システムがあるということ。これは日本共産党でも無理だ。アカハタは日刊紙約20万部、日曜版が約80万部。
その他、創価学会の勢力を示す数値は、いくらでも調べられるが、すごいのは「人材」だ。
大幹部、本部職員、聖教新聞社員などの内部の人材よりも、各界に輩出されている人材だ。
まず官僚。司法。マスコミ。経済界。教育界。地方公務員。警察など。各分野に人材がいる。そして、ちゃんとした暮らしをして地域の信頼を得ている学会員がたくさんいる。それらが、ネットワークを作り、情報は集められる。
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最も枢要なことは、創価学会を支える中核が池田氏ということだ。池田氏は、60年余にわたって創価学会のリーダー、カリスマとして君臨している。会員の心情としては、「池田大作日蓮法華経>釈迦仏教」ということになる。中核中の中核は池田氏である。末法の本仏レベル、日蓮の再誕、いわば大宇宙のリズムに合致した存在ということになろう。
さて、問題は、いまの池田氏の状態である。カリスマとてやはり人間である。もはや94歳になる。いつまでも健康であるはずがない。いつかは死ぬ。
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毎日のように聖教新聞に顔を出していた池田氏が、公の場に姿を見せたのは2012年の11月が最後。米大学からの博士号授与式典に出席したときだ。以来、10年にわたって会員の前に姿を表していない。
学会員に聞くと「池田先生はたいへんにお元気です」と判を押したように言う。また、聖教新聞には、池田氏のメッセージが毎週のように出てくる。長文の核兵器廃絶の提言なども発信している。
これは、とうてい本人が書いているとは思われない。
もとより、池田氏の著作は、かねとより学会内の「代作グループ」が書いていただろうことは、容易に想像がつく。代作の主筆が変わると、その筆の勢いが変わるのも、編集を仕事としている私はよく感じるところである(たとえば、主著の「人間革命」など)。
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かなり認知症が進んで、会話ができないのか。あるいは、もう亡くなっていて蝋人形。あるいは身代わり。
そんな風に思えてくるのだが、どうだろう。わたしはもはや、池田氏は死んでいるとみている。死んでいなくても、人前には出られないレベルと思っている。
いずれにしても、近い内に、その事実が明らかになることだろう。


池田氏滅後の創価学会についての予測は、また別の機会に。)


 

あかりの日々の学習と暮らしは GoogleSpreadsheetで学校と共有

あかりが「学校に行かない」と言ったのが8月31日。深く心に決めている。「自分の自由な時間が奪われるのが嫌だ」という。

その気持もよく分かる。だいたいマスクして授業受けているし。そんのお父ちゃんも行きたくない。

なので、「いかなくてもいい。いってもいい。どちらでもいい。行きたくなったら行けばいい」というスタンスをとってきた。

翌日、担任の先生が来訪。あかりと丁寧なお話をしてくださった。
「あかりちゃんに会いたくてきたの。あかりちゃんがいると、みんなも先生たちも元気になるのよ。あかりちゃんがいるだけで、みんな元気もらっている」と。
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話の中で、あかりは「とりあえず行く」という流れになったが、朝になるとやはり「行きたくない」という。「おとうちゃんみたいに、ぴしっといえなかった」と言っていた。そこで、これはもう難しいと見て、校長宛に文書を発行した。9月2日のことだ。こんな趣旨だ。

あかりは、「もう学校に行かない」と決めている。
行かない理由は「自分の時間が奪われてしまうから」。
一斉に学ばされ、時間を拘束されるのが嫌だと言う。
もっと遊びたい、自分の興味のあるものを深めたい。
不登校の理由は、「無気力」でもない。「いじめ」でもないん。「身体的な病」でもない。いわば「積極的自宅学習」を選んだ。親としては、その道もありと思っている。
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文書を学校に届けていく中で、校長室で話をした。
話のよく分かる校長だった

不登校児という言葉は使いたくない。
あかりちゃんの選択を大切にしたい。
しかし、あかりちゃんの心が学校から離れてしまうのが心配。週一とか運動会とか、なんらかの形でつながっていたい。また、わたしたちも、お子さんの安全と教育に責任があるので、ときどき訪ねさせてもらいたい。

そんな話であった。そして、毎日、ネットで「いかない理由をチェックすると」いうことになった。
しかしやってみて、無意味と思った。しかない理由の選択項目には、身体的な理由、家庭の事情などという項目があり「積極的自宅学習」というのはない。

あかりは、もう行かないと決めている。なので、お互いにそれをチェックするのは、無意味。なるたけ無駄なことはしないほうがいい。むしろ本質的なことを深めたい。形式的なことでやったと満足したくない。そう伝えた。
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すると、校長から電話があった。「わたしどもは、やはりお子さんの教育、安全、どんな暮らしをしていのか、責任があるので、やはり日々の連絡はいただきたい」ということであった。

もう文書は発行しているし、こちらから教育委員会に直接、文書を発行してもいい。しかし、日々の連絡が法的に決まっているということなら、根拠を教えてくださいと伝えた。

自分なりに調べると、たとえば「学校保健安全法」がある。
「学校生活その他の日常生活における安全」「児童生徒等の保護者との連携を図る」とある。

学校保健安全法 第27条
学校においては、児童生徒等の安全の確保を図るため、当該学校の施設及び設備の安全点検、児童生徒等に対する通学を含めた学校生活その他の日常生活における安全に関する指導、職員の研修その他学校における安全に関する事項について計画を策定し、これを実施しなければならない。

学校保健安全法 第30条 
学校においては、児童生徒等の安全の確保を図るため、児童生徒等の保護者との連携を図るとともに、当該学校が所在する地域の実情に応じて、当該地域を管轄する警察署その他の関係機関、地域の安全を確保するための活動を行う団体その他の関係団体、当該地域の住民その他の関係者との連携を図るよう努めるものとする。
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校長が言われるのは、ひとつにはこの法律が根拠だと思う。

だとしたならば、たんにネットでクリックするだけでは、むしろ法的な意図は満たされない。たんなるアリバイ的な作業だ。

「じゃあ、こうしましょう」とこちらから提案した。GoogleSpreadsheetに共有をかける方式だ。

①あかりが登校しない理由を毎日連絡するのはお互いに手間。「学校に行かない。家で学ぶこと」をあかりは選択しているので、ベースとしては学校に行くことはないのだから。

②そのことは、すでに文書で伝えているので、お互いに手間のかかるようなことはやめたほうがいい。

③しかし、学校には子供の安全と教育と暮らしを見守る責任があるのだろうと思う。たとえば、学校保健安全法など。

④しかし上記の法律によれば、機械的なチェックのやりとりだけでは意味はない。法的な趣旨は満たされない。

⑤こちらであかりの日々の記録を作成していく。あかりの日々の学習の成果、池谷家の動き、学校からの連絡という項目を作って、クローズドでGoogleSpreadsheetに共有をかけることする。学校からアクセスししてもらいたい。

それで、校長も納得してくれた。
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昨日は、担任も先生がきてくれた。一週間分のプリントを持参。
あかりも先生の横にすわって、もじもじしながらとやり取りはできた。
訪問してくれた時、迎えにいって、こんにちわと挨拶できた。帰るときも、玄関までおくりにいった。

ともあれ、この山里の学校は、校長も担任も、とても理解があってありがたい。きめ細かいフォローがあありがたい。生徒数の少ない(同級6人)山里ならではだなあ。

というわけで、あかりはわたしの取材の仕事、鍛冶屋さんに行ったり、手漉き和紙職人を訪ねたり、滝に寄ったりしている。きょうは、福田港に出かけてシラス丼を食べる。

学習は、国語辞書に付箋を貼ったり、絵本の音読、計算ドリル、九九、図画工作をしている。

ただ、友達。仲間がいないので、どうしても威張りだす。小皇帝のようになってしまう。そこをどうかするか。武道を習わせたい。この施設を開放して子供の遊び場とする。いろいろ試行している。

戦後の闇市 軍需物資の横流し

「わしは20代の頃は横須賀でヤクザをしていてのう」
──ええ!びっくり。それはまたどんな仕事していたんですか?

天皇玉音放送のあと、軍部が蓄えていた物資は、横流しになった。属していた組が闇物資を運んで管理して闇市で販売していた。わしはその仕事をしたんだ。おもしろかったなあ。」

──それはまた、あぶない仕事をしていましたね。
「そうだなあ。親分は刺されて殺されたけどなあ。わしは評判がよくてのう、みんなから好かれたよ」

時間がなかったので、またその話はゆっくりと聞かせてもらうことにした。
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うちの施設の利用者さんの一人は、戦時中は、二俣の女学校に宿舎から通っていた。あるとき学校の床が全部剥がされてミシンがズラッと置かれた。カーキ色の生地が山と積まれていた。

「これから、あなたたちは兵隊さんの軍服を縫うんだ」
と言われた。それから、毎日、軍服を縫うのが仕事になった。授業などはなくなった。

ところが、玉音放送のあった翌日のこと。
山と積まれていた布はすべてなくなった。「あれはいったいどこにいったのかしら」と言っていた。
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玉音放送の後、全国の軍将校や文民官僚たちは、書類を焼き捨てた。占領軍に見つかると自分たちに責任が及ぶことを恐れてのことだ。

あるものは、軍の貯蔵物資を密かに売却する仕事に没頭した。占領軍がやってくるまでは、統制も秩序も失われていた。物資の横流しや窃盗が頻繁におこなわれた。揮発油(ガソリン)や軽油をドラム缶代用の木樽に入れて、見つからないように各地の山に埋められたりした。
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また旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類も、大半が行方知れずとなってしまった。そういうものが、政界に流れたとして隠退蔵物資事件が明るみにもなった。

児玉誉士夫などは、大量の軍需物資を政界工作に使って、日本の黒幕として暗躍したのであった。

児玉は、戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供し。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
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生きるためには、いろいろなことに手を染めなくちゃいけなくなる。
ましてや戦後は、まったく物資が欠乏していた。
食糧危機だった。そんななかで、闇市が盛んになった。

戦後は、食料飢饉でたけのこ生活(たけのこの皮を剥ぐように、着物を売っては食料に変えていた)。農家から着物と交換した食料をリュックで運んでも、闇物資として、官憲に見つかれば取り上げられてしまうのだった。

食糧不足の原因には、農産物の不作、引き揚げ者による国内人口の急増、海外からの輸入の途絶があった。

全国消費者米価によれば、終戦の一九四五年(昭和二十年)を一とすると、二年後には、「二十五倍」以上。さらに一年たつと、「六十倍」以上にはね上がっていた。

闇買いを一切拒否すれば、餓死してしまう。闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した裁判官もいた。
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また、そんな時代がやってきそうな予感がする。

やはり敗戦、無条件降伏、アメリカの占領軍の支配下の歴史から。

なぜ日本が今のようになってしまったのか。その原因はどこにあるのか。どうしたらよいのか。
それはやはり、歴史を紐解くしかない。
江戸時代や明治維新から調べるのもよいが、直近には、やはり敗戦、無条件降伏、アメリカの占領軍の支配下の歴史から。
その歴史が今も根強く続いているからだ。
今回は、無条件降伏からマッカーサー民主化政策、憲法三原則まで。すごいのはその迅速なスピードである。1945年10月から12月までのわずか2カ月間に、「民主化」の基本政策を、矢継ぎ早に指令していったのだ。
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1945年8月15日 正午に、天皇による玉音放送。未明には、阿南陸相が自決した。24日に、田中静壱陸軍大将、海軍では、16日に軍令部次長の大西滝治郎中将などが自決した。技術士官、看護婦などにも自決者が出た。そして、陸海軍関係者のなかで自決した人の数は、六百人を超えた
重大放送の直後、全国の軍将校や文民官僚たちは、書類を焼き捨てたり、軍の貯蔵物資を密かに売却する仕事に没頭した。アメリカの空襲は終わったけれども、東京の空はそのあと何日も煙で暗かった
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1945年8月17日 東久邇内閣が発足した。「一億総懺悔」というスローガンを掲げた
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1945年8月30日 マッカーサーは、日本占領のため、アメリカ軍の輸送機バターン号に乗って、厚木飛行場に降り立った。
アメリカ大統領トルーマンから、日本においてはほぼ全権が与えられていた。
占領は1945年8月にはじまり、6年8カ月後の1952年4月に終わっている。日本における最高権力者として君臨し、各種の占領政策を行って民主化を進めた。
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1945年9月2日 降伏文書の調印は、東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われた。ミズーリの艦上には、ペリー提督が日本に開国を要求するため日本に来航した際に、ペリーが座乗した旗艦である外輪式フリゲート艦サスケハナに掲げられていた星条旗と、2つの5つ星の将旗が掲げられていた。全員が署名終わったときにマッカーサーは「いまや世界に平和が回復し、神がつねにそれを守ってくださるよう祈ろう。式は終了した。」と宣言した。
日本政府は連合国最高司令官の指示に従うこととされた。
イギリスのルイス・マウントバッテン伯爵は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えた。
宣言と同時に1,000機を超す飛行機の轟音が空に鳴り響き、歴史的式典の幕を閉じた。皇居では昭和天皇が首を長くして降伏調印の報告を待っていたが、重光は参内すると、同行した外務省職員加瀬俊一の作成した報告書を朗読し「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができただろうか」という報告書の問いに対して昭和天皇は嘆息してうなずくだけであった。
調印式から九日後の記者会見で、マッカーサーは日本が「四等国」になりさがったと述べた。
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1945年9月3日 シンガポールを陥落させた山下奉文陸軍大将はフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。1945年12月8日 マニラの軍事法廷で死刑判決を受けた。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された。
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1945年9月8日 マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。
軍楽隊が国歌を奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた。
マッカーサーは、第一生命館を自分の司令部とすることにきめた。第一生命館は、皇居を見下ろす地上8階建てのビルであり、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた。
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1945年9月10日 マッカーサー元帥の名で、日本管理方針を声明した。
日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、天皇の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。
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1945年9月11日 第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。米英などに宣戦布告した時の内閣総理大臣で、陸軍大将でもあった東条英機が逮捕され、さらに海軍大将でもあった嶋田繁太郎外務大臣を務めた東郷茂徳など、軍部や政界の要人39人が、次々に逮捕されていった。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となった。
戦犯容疑者への逮捕命令は続き、12月に入ると、陸軍元帥であった皇族の梨本宮も逮捕され、さらに内大臣昭和天皇の側近であった木戸幸一や、戦時中、首相を務めた公爵の近衛文麿にも及んだ。
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1945年9月27日 天皇は、赤坂のアメリカ大使館に、マッカーサーを訪ねた。
昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」
それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。当時マッカーサーは65歳。天皇は44歳。
マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンがマッカーサーから聞いた話ではこうなる。
裕仁マッカーサーを訪問したとき、天皇マッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受け取る前に真珠湾を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った」。
マッカーサー天皇の写真が、29日の新聞記事に掲載された。当時の国民にショックを与えた。多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見通り、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった。
マッカーサー昭和天皇はその後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサー昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。
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1945年10月2日 GHQ(General Headquarters) 連合国最高司令官総司令部第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部
極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官連合国最高司令官とも、英語: Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)。日本では、総司令部(英語: General Headquarters)の頭字語であるGHQジーエイチキュー)や進駐軍(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。
名目上あくまで「占領支配」ではなく「ポツダム宣言の執行」が本来の役目であるものの、実質上はアメリカ合衆国による日本国占領機関であり、結果として1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効されるまで連合国軍占領下の日本は外交関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた
降伏文書に基づき、天皇並びに日本国政府統治権は最高司令官の支配下におかれた。
GHQ民主化指令を出す。日本政府に対し、政治的自由、市民的自由、宗教的自由に関する制限の撤廃と、十日までに政治犯、思想犯を釈放することを指令した。これで、治安維持法の廃止、共産党の合法化がなされなければならなくなった。さらにGHQは、内相以下、全国警察首脳部の罷免と、特別高等警察の廃止を命じた。
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1945年10月11日 GHQ(連合国軍総司令部)は、1945年10月から12月までのわずか2カ月間に、「民主化」の基本政策を、矢継ぎ早に指令していった。
まず、婦人への参政権付与、労働組合結成の奨励、学校教育の自由主義化、圧政的諸制度の廃止、経済機構の民主化――の五項目にわたる改革指令を、新首相・幣原喜重郎に示した。"治安維持法は廃止。保護観察下の者も含め、政治犯約三千人が釈放。
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1945年11月 連合軍は、南九州の沿岸へ上陸し、翌46年)春には、関東平野に上陸を敢行する計画。その兵力は、硫黄島や沖縄で味わった日本軍の頑強な抵抗からみて、かつてない大規模なものが必要と考えられていた。しかも、この上陸作戦には、アメリカ軍は二十万近い死傷者を予測していた
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1945年11月6日 GHQによる財閥解体指令
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1945年11月18日 軍需会社への補償の停止等を命令した。
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1945年11月18日 GHQによる皇室財産の凍結命令
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1945年12月9日 GHQ 農地解放 
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1945年12月15日GHQ 神道を国家より分離する」との指令を発した。
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1946年1月1日 天皇人間宣言
「……朕チント爾等国民トノ間ノ紐帯チュウタイハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神アキツキカミトシ、且カツ日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延ヒイテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ……」
岡山では「酒本天皇」が出現し、鹿児島では「長浜天皇」が、新潟では「佐渡天皇」が、そして高知では「横倉天皇」が現れた。愛知県には二人も現れて、「外村天皇」と「三浦天皇」を称した。「熊沢天皇」熊沢寛道という名古屋の五六歳の雑貨店経営者。皇統の南朝北朝への分裂という一四世紀にまでさかのぼる天皇系図上の論争に基づいていたる。裕仁北朝の系統を引くものであり、熊沢がその子孫であると主張する南朝の方が正統であって、自分が皇統を継ぐべきだと主張。
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1946年1月4日 公職追放令が発せられ、軍国主義超国家主義に協力したとみなされた政財界人、官僚、言論人、教育者などが、各方面で公職追放となった。その人数は、二年間で約二十万人を数えるにいたった。
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1946年1月25日 マッカーサーは、米陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打った。
天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」
天皇を葬れば日本国家は分解する」
「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」
「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」
「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」
アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。
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1946年2月3日マッカーサーは、GHQ民政局に対し、憲法改正草案の早急な作成を指示し、草案に盛り込むべき不可欠の内容として、三点を記したメモを渡した。いわゆる「マッカーサーノート」。
そこには、(1)元首としての天皇の地位、(2)戦争放棄、(3)封建制度の廃止、が記されていた。
ここに初めて、「戦争放棄、軍備撤廃」が浮かび上がってきた。日本の新しい憲法は、マッカーサーが欠くべからざるものと言明した三原則に基づいて作成されることになった。ホイットニーがこの会議に持ってきた走り書きのメモには、次のように記されていた。
天皇は、国家の元首の地位にある。The Enperor is at the Head of the State。皇位世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示される国民の基本的意思に応じるものとする。
「国の主権のひとつとしての戦争は、廃止される。日本は、自国の紛争解決のための手段としての戦争、さらに自国の安全を保持する手段としての戦争でさえも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある、より崇高な理想に委ねる。日本のあらゆる陸海空軍はけっして認可されず、あらゆる交戦権はいかなる日本軍にも与えられない。
日本の封建制度はその役割を終える。The feuda lsystem of Japan will cease。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後はどのような国民的または市民的な独自の政治権力を伴わない。予算の型は、英国の制度にならう。
立憲君主制、絶対平和主義、封建制度の廃止などの原則だけ大仰に宣言し、細かいことは部下に委せるというやり方であった。
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以上、参考にしているのは、Wiki、ジョン・ダウアー「敗北を抱きしめて」など。戦後史を毎日、すこしずつGoogleSpreadsheetに入れている。なかなか楽しい作業だ。

神は見たことのない、聞いたことのない、心に思い浮かんだことのないものに導いてくれる

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(コリント2章9節) 
あかりと図書館にいった。絵本をたくさん借りてきた。
その帰り、渥美さんの家に寄った。
猫がいるので、あかりに猫を見せたくて。
訪ねると、さきほど富山から帰ってきたところだという。
富山では、個展(夫婦展)を数日開催していた。
ふたりとも石に猫を描く作家である。
突然の訪問ながら、気軽に雑談。コーヒーをいただく。
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渥美さんが石猫作家になった経緯についてお聞きした。
春野に移住したのは、ペンションを経営しようとしたからだった。
川の畔に土地を求め、家を新築した。
はじめの一年は、友人知人がたくさんきてくれた。
しかし、数年して、さっぱり来なくなった。
家の借金もある。見通しは暗い。やっていけそうにない。
もう、ペンションたたもうか、仕事に出ようか。思い悩んだ。
そんなとき、娘さんが河原で石をひろってきた。それに、ネコの絵を描きだした。
「これはいい」。夫婦で石に猫を描き出した。
やがてクラフトフェアなどに出店し、個展もするようになっていった。
すこしずつ、売れるようになっていった。
そうして借金も返してしまった。
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すばらしいのは、夫婦で描いていること。
ともにクリスチャンなので、石猫の底にはかならず聖書の一節を刻んで、心を込めて描いている。
渥美さんは言っていた。
「あのままペンションがうまくいっていたら、あとあと苦しいことになっていた。まさに、神は見たことのない、聞いたことのない、心に思い浮かんだことのないものに導いてくれる。そのことを実感した」。

 

「みんながやってるから」という、きわめて日本的なありようからは、脱却したい。

日本は、99%以上がマスクしている。こんな過疎の山里でもマスクしている。
わたしは、病院に行く時以外は、マスクはしない。
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昨日は、裁判。ラウンドテーブルで、裁判官と被告の弁護士とやりとり。
さすがに裁判官から「マスクをつけていただけますか」と言われた。裁判官に言われたのなら、つけざるを得ない。ひらひらの布マスクをかたちだけつけた。
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マスクの問題点ざっくり挙げてみた。
①マスクすることで酸素が不足する。脳細胞の成長が阻害される。成長期の子どもたちにつけさせるのは、問題だ。
②暑いのにマスクをしてたら、熱中症になる。
③マスクは雑菌の巣になる。つけるなら毎回つけたびに、新品か消毒しないとね。
④マスク内で吐いた二酸化炭素が増えてしまう。危険数値になる。集中力が落ちる。身体も不調になる。
https://twitter.com/YOSHI81145150/status/1560926011298312193
⑤お互いに相手の表情が見えない。情操教育の面からも、コミュニケーション能力の面からも障害されることが多い。とくに子どもにとって、かなしいことだ。
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そもそもマスクをしても、意味があるのか。
コロナは飛沫感染ではなくても空気感染と言われている。ならば、それこそ防毒マスクのようなものでないと防げないじゃないか。マスクをしても、空気は、ウィルスは漏れ漏れだ。
https://twitter.com/Awakend.../status/1563051281845227520
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岸田総理は、外での会議ではマスクを外している。首脳たちは全員外している。ローマ法王の謁見でも外している。かれは、羽田に到着するとマスクを付けだしていた。
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意味のない、合理性のないことは、しないほうがいい。
「みんながやってるから」という、きわめて日本的なありようからは、脱却したい。

「山里にいる 普通なのに普通じゃないすごい90代」すばる舎刊行

「山里にいる 普通なのに普通じゃないすごい90代」すばる舎刊行
9月に出すということで、いま大詰め。原稿の最終確認。
「まえがき」と「あとがき」つくった。こんなんでいいのかなあ……。たたき台なので、コメントもらえたら「あっそうか」と修正できるので、適当な言いっ放しでも、よろしくお願いします。
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まえがき
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東京暮らし40年に限界を感じて、あるとき、「都会暮らしはもういい。人生の後半は田舎暮らしだ」と急に思い立った。
といって具体的に住みたい場所があったわけではないが、やはり故郷の浜松の近く。山里がいい。
地図をくまなく見ていたら、「春野町」(静岡県浜松市天竜区)という地名が目にとまった。
春の野の町。とても良い響きだ。「ここがいい」とピンときて、空家探しに出かけた。
見つけたのは、古民家と土地1700坪(宅地400坪、農地1300坪)という広大なところ。
春野町は、人口は3500人ほど。東京都23区の4割もの広さだ。
都会から移住すると、まず空気の質感が違うのにおどろいた。
重たくないのだ。すっきりしていて、疲れ方が違う。
星空がきれい。清流がある。森がある。
都会では味わえない、日々の充実感。私はここでの暮らしがすっかり気に入った。
3000平米もの田んぼも始めた。無農薬のアイガモ農法だ。大豆を何百キロも収穫した。炭焼窯もつくった。
そんななか、山里に暮らす人々と、接する機会は多くなっていった。
田舎ゆえの閉鎖的なところもある。
しかし、生き生きとした山里の暮らしに出会うのは楽しい。
なにより魅力的な人がたくさんいるのだ。
その方たちの生き方、暮らしぶりを聴かせてもらうのが楽しみとなった。
春野町は過疎高齢化が著しい。この10年で人口減少率は3割近い。
子どもの声がほとんど聞かれない。山里で出会うのは、お年寄りばかりだ。
でも、とにかく元気なのだ。80代はざら、90代でまだまだ現役で仕事をし、自立して暮らしている。
都会暮らしの私から見ると、びっくりするような方がたくさんおられた。
みなさん、屈託なく、柔和で味わい深い。
年輪の深みがじわーんと響く。
一見すると、どこにでもいる普通のおじいちゃん、おばあちゃん。
しかし、なかなか普通じゃない。とってもすごいのだ。
だが、自分がすごいなんて、微塵も思っていない。
とくに健康法があるわけじゃない。
でも、暮らしの中で体を使ってやる仕事がたくさんある。
幼少期から山で暮らしてきたので、鍛錬されているのだろう。 
なにしろ山里は不便だ。駅までものすごく遠い。店もない。医療設備も弱い。バスもなかなか来ない。
なので、自分でひとつひとつ工夫しないとやっていけない。
自分のことは自分で行い、持てる力で人を助け、互いに支え合いながら暮らす。
そうした日々を重ね、老いを迎えた方々の笑顔は、まさに神々しい。
この本では、そんな「すごい90代」の方たちにご登場願った。
みんな私の暮らしている近くにおられる人生の大先輩たちだ。
大詰めで原稿の最終確認。
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あとがき
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この山里で診療所とデイサービス、老健(介護老人保健施設)、訪問看護施設を経営する、医師の遠藤徹郎さん(79歳)がおられる。遠藤医師は漢方が専門。大学では「老人学」を専攻した。かつ僧侶(浄土真宗)というめずらしい経歴の持ち主。高齢化が進む過疎地を、医療と介護の両面から支えている。
──山里は、やはり元気なお年寄りが多いと思います。どうしてなんでしょうか。
「うーん。やっぱり空気と水がおいしいことかな。都会よりはのんびりしている。それは大きいよね」
──山里はなにしろ坂が多いから、自然と足腰が鍛えられますよね。とくに昔は、歩くしか交通手段がなかったから、子どもの頃からの鍛え方が違うんでしょうね。
「そうだね。それと、食べ物かなあ。とにかく野菜をたくさん食べる。自分で畑で野菜を作っているからね。せっせと草取りをしている。それが、いい運動になっているんだろうな。うちの老健では、利用者さんに畑を提供して土いじりをしてもらう。みなさん幼少の頃から草取りしてきた方たちだから、もう自然と体が動いてね。草をほうっておけない(笑)」
「よく草を取る」というのは、「日常の中で(畑の世話をするという)仕事がある」ということ。それがいい運動になり、日々のやりがいになっている。たくさん野菜ができたら、差し上げたり。他人から頂いたりする。料理の方法もおしゃべり。そういうやりとりで交流がすすむ。
本書でご登場願った、90代の方々は、7人7様の生き方なれど、そのお元気ぶりには共通点があるように思う。
取材で感じた「健康長寿の秘訣」をあげてみる。
1.日々するべき仕事がある。現役である。
2.特別な運動はしなくても、暮らしそのもの、家事の中に動きがある。
3.ぜいたくなものは食べない。菜食を中心とした粗食。
4.人とのやりとり、おしゃべり。おしゃべりできる相手がいる。
5.いろいろなことがあっても、苦にしない。さらりと流している。
6.いまある暮らしで満足している。欲が少ない。高望みしない。
7.人に喜んでもらうことが喜び。人の役に立とうとする。人をもてなす。
なかでも、1の「日々するべき仕事がある」ことが、大きなポイントかなあと思う。
どんな形であれ、日々、体を使って動かす。
年をとってからの生活で寂しいのは、
「きょういくがない」(今日、行くところがない)
「きょうようがない」(今日、用事がない)
ことだと言われる。
望ましいのは、現役で仕事をしていること。仕事があること。生涯現役。
それこそが「人生百年時代」の鍵なのだろう。