①いま自分のいる現実こそが、自分が選択したものであり、望んだ結果である。
②いまの現実は、自分が学ぶために現れている。学びの最適な環境が、いまの現実である。
③どんな行為においても「意識的」であること。なにをするにしても、ちゃんとそこに意識(SATI=気づき)を入れること。動作、思考の働き、感情の動き。
念仏というと、どこか哀愁が漂い、日没のイメージがあるかもしれない。ほんらいの念仏は、阿弥陀仏をイメージする行法だが、法然や親鸞の浄土教の場合、となえる念仏である。
浄土宗だと、なーむあーみだーぶ。
浄土真宗だと、なまんだぶ、なんまんだぶ。あるいは、なまんだぶー。
称えてみればわかるが、穏やかで、ゆったりしている。浄土宗は木魚を打ちながらで、身体感覚的にいい。とくに、木魚のリズムが裏打ち(バックビート)で、これが心地いい。
真宗は、行法として位置づけられておらず、報恩感謝の念仏ということで、つぶやくように各自が称える。
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念仏にはいろいろな行法がある。たとえば、別時念仏、不断念仏。夜どうし木魚を叩いて、念仏をとなえるのだ。ただ、これを実践できる道場は、なかなか見つからず、まだ体験したことはない。
縁あって浜松で、高称念仏という行法をやっていた寺を訪ねたことがある。法林寺という。
お訪ねすると、本堂には、直径1メートルくらいの木魚があり、太さ15センチほどのバチがある。その巨大木魚にむかって、バチを思い切り叩きつける。
なーむ、あーみ、だー。
なーむ、あーみ、だー。
3拍子だ。
思い切りと声を出す。腹の底からとなえる。木魚にバチを叩きつけながら。いわば、剣豪の修行のような気合でやる。
これがじつにいい。
私がやってみた時、思い切りすぎてバチが折れて、折れたバチが飛んでいった。その先に大きな阿弥陀様の像があった。ひやっとした。
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ひとつのカタルシスワークだ。頭が空っぽになる。すかっとする。すごい行法と実感した。
心理療法としてもつかえると感じた。
イライラ、怒り、悲しみなど、そういった抑えこまれて出口のない鬱屈した感情が、解放されていくと思う。
この行法をぜひ復活して、定期的に体験できるようにするといい、と住職にお願いしたことがあった。
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ほんらいのお寺というのは、仏道の実践の場。そして、寄り合いの場、学びの場であるはずだ。法要や葬儀、先祖供養は二の次。
生きた人々のために、生きる支えとなる実践法を伝え、教えが伝えられなければ、もったいない。
伝統的な仏教の実践法を宗派はつたえているのだから、お寺はもっとひらかれて、一般の人が実践のできる道場になるといい。
気合カルタ。地獄カルタ。
あかりは、机の上。おとうちゃんは椅子に座って。
はじめては、あかずきんちゃんとおおかみカルターしていたが。迫力なし。おもしろくない。つまらない。
そのうち、キエーイ!と迫力で、ばし
気合カルタ。地獄カルタ。
あかりは、机の上。おとうちゃんは椅子に座って。
はじめては、あかずきんちゃんとおおかみカルタをしていたが。迫力なし。おもしろくない。つまらない。
そのうち、キエーイ!と迫力で、ばしーんとカルタとりに展開していった。
やがて、エスカレート。もう内容はまったく関係なし。
仏教カルタ。
諸法・実相!
一念・三千!
地獄即・寂光!
六道・輪廻!
捨閉・閣抛!
正法・眼蔵!
秘密曼荼羅・十住心論!
絶対・他力!
諸行・無常!
寂滅・為楽!
と、叫んでバシッとカルタを取り合う。
やがて、あかりはカルタをぜんぶ、床の下に放り出して。
「みんな地獄に堕ちたぁ」
というものすごい混沌ゲームを楽しんだのだった。
そのあとは「地獄の釜の蓋」ゲーム。あかりを追いかけて、頭からかぶせる。逃げる。おいかける。
もうこうなると、迫力と気合の応酬。おかげで、朝は声がガラガラ。
まあこういうのは、いわばヴィルヘルム・ライヒの生体エネルギー療法。声をどわーっと出すとともに、身体の自己解放法。
そんなこんなで、ひらめいた。
こんど、施設でOSHOのDynamicMeditationをやろうかと思っている(もちろん利用者さん大正じゃなくて)。思い切り叫んでもジャンプしても問題ない山里。エネルギー開放。そして訪れる寂静。
ーんとカルタとりに展開していった。
やがて、エスカレート。もう内容はまったく関係なし。
仏教カルタ。
諸法・実相!
一念・三千!
地獄即・寂光!
六道・輪廻!
捨閉・閣抛!
正法・眼蔵!
秘密曼荼羅・十住心論!
絶対・他力!
諸行・無常!
寂滅・為楽!
と、叫んでバシッとかるたを取り合う。
やがて、あかりはカルたをぜんぶ、床の下に放り出して。
「みんな地獄に堕ちたぁ」
というものすごい混沌ゲームを楽しんだのだった。
そのあとは「地獄の釜の蓋」ゲーム。あかりを追いかけて、頭からかぶせる。逃げる。おいかける。
もうこうなると、迫力と気合の応酬。おかげで、朝は声がガラガラ。
まあこういうのは、いわばヴィルヘルム・ライヒの生体エネルギー療法。声をどわーっと出すとともに、身体の自己解放法。
そんなこんなで、ひらめいた。
こんど、施設でOSHOのDynamicMeditationをやろうかと思っている(もちろん利用者さん大正じゃなくて)。思い切り叫んでもジャンプしても問題ない山里。エネルギー開放。そして訪れる寂静。
コロナ禍は進む。最悪の時代に入っていく。人々がたくさん死んでも、国が滅亡しても、政府はオリンピックをやるらしい。「あとは野となれ山となれ。わが亡き後に洪水よきたれ」と。
やがて秋口くらいから、倒産が相次ぐ。仕事がなくなる。生活費が枯渇する。借金が返せない。コロナで死ぬかもしれないが、それよりも経済の大停滞で、生活苦で死ぬ人が増える。
いまの政府のレベルでみると、どうなるか。
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①人々がバタバタ死んでいく。それを座してみているだけ。やってる感を出すだけ。責任はとれない、責任の所在が曖昧。
自分たちの仲間の利権は確保。自分たちは安泰。あとのことは知ったこっちゃない。政府といったって外資様の傀儡なんだから。日本が安く買い叩かれたって、関係ない。
②巨大な財政出動をするか。カネをどんどん印刷して国民に配る。公共事業を行う。コロナ・ニューディール大作戦。しかし、ものすごいインフレになって、食糧難になっていくか。
③いよいよベーシックインカムの導入か。国民一人に月10万円。たとえば、3人家族なら30万円。5人なら50万円。そうなったら、家賃の高い首都圏にいる必要はない。家賃の低い田舎に移住して自給自足。収入が保証されていれば、好きな仕事を行う。創作活動を行う。
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自分たちのレベルでみると、どうしたらいいか。これが難しい。
①相互扶助の強靭なネットワークづくりしかない。友人こそが財産。情報を共有する。お互いに足りない所を補う。助け合う、励ます、守り合う。
②食いつないでいくだけ。贅沢は捨てる。極貧に生きる。その暮らしをしあわせと感じる。ひとつの呼吸、一歩の歩み、一杯の水、その行為それ自体が幸せと感じられるように、心境を研ぎ澄ますのみ。
出版企画:まだ思いつきのたたき台。実現の構造には入らず。そのままお蔵入りも十分ありうること。
上座仏教の長老の語りおろし路線。池谷が以下のようなたたき台を作る。
すると、長老から「こんなんじゃだめだ」「これじゃあまるで、背広を着てスカート履いてるみたいじゃないか」などと叱られながら練り上げていく。
本のタイトル:
「ブッダ究極の教え 犀の角のように独り歩め」
「ブッダ究極の教え まったく依存しない生き方」
「ブッダの教えは宗教ではない。それは生き方をしめす」
「不安とともに安心して生きる ブッダの教え」
本のだいたいの筋の流れ
◉まったく何にも依存しない
ブッダの教えの中核は、なんでしょうか。
一言でいうと、「まったく何にも依存しない生き方」「依存そのものから離れている生き方」です。
ブッダは「犀の角のように独り歩め」(スッタ・ニパータ)と説いています。
「屹立した犀の一本の角のようであれ。他に依存することなく独り歩め」といいます。
その生き方こそが、この不安の時代に、安心を得て満ち足りた生き方なのです。
宗教というと、神とか仏とか、なにか人間を超えた偉大な存在を礼拝し、祈願し、おまかせする生き方のように思われていることでしょう。
宗教でなくても、ひとは、なにかに依存して生きようとします。
依存するものは、たくさんあります。
たとえば、ギャンブルや酒、異性。親や子ども。お金、名誉、地位。あるいは、なんらかの教義、信念、イデオロギー、イメージ、価値体系、思想もそうでしょう。
いわば、ひとはつねに「依存症」「依存病」にかかっているのです。
依存するものは、移りゆくものであり確固としたものではありません。依存すると、そこに期待が生まれ、アテが外れれば悔しがり、怒りも生じます。
それこそが、不安の正体です。
それに対して、ブッダはまったく何も頼りにするな。依存するな。独りで歩めといいます。
仏教ですら依存するな、といってもよいでしょう。
その意味では、ブッダの説くことは「宗教」とはいえません。
ブッダの説くことは宗教ではなく、自由で自在な生き方そのものです。
◉備えあれば憂いあり
世の中の智慧としては、「備えあれば憂いなし」と言われます。
ブッダの教えは、備えをしない生き方です。「備えあれば憂いあり」「備えなければ、憂いなし」なのです。
すべての事象は変化するのです。いくら備えても、安心はありません。
たいせつなのは、備えそのものをしないことです。
雨が降ったら、どうぞ雨よ降れ。風が吹いたら、どうぞ風よ吹けという生き方です。
何があっても、何が起きてもよい生き方を歩むのです。
辛い、寂しい、悲しいとしたら、その事実に直面する生き方なのです。
◉今ここで実践できる道 確かめられる道
そんな生き方は可能でしょうか。
だれでも可能だとブッダは説きます。
どんな人でも歩める生き方を示しています。頭がいいとか、お金があるとか、自由な時間があるとか、若いとか体力があるとか、関係ありません。
どんな人にでも、どんな境遇にあっても実践の可能な生き方なのです。
しかも、今ここで実践できる道です。それこそ瀕死の重病人でも実践ができるのです。
いつか、そのうち役に立つというものではありません。
実践したら即結果として現れる道。まのあたり体得される安らぎです。それは、自分自身で実践してみれば確かめられるのです。
◉気づく道
それは、あるがままの自分に気づく道です。いわばマインドフルネス。
ひとは、つねに無意識に生きています。いまここにいません。
過去のことを悔み、将来を心配し、いまやっていること別のことを考えています。やっていることと頭の中はバラバラです。
たとえば、呼吸です。無意識に呼吸しています。
動作です。歩いたり立ち上がったりそのすべての行為において、ほとんど無意識に行っています。
それらの動作一つ一つに意識的にになること。気づいていること。
呼吸のひとつひとつに。行為ひとつひとつに気づいていること。
瞬間瞬間の自分の身体の動き、感情の変化に気づいていること。
それは、今のあるがままの現実をよく観る。いま、ここにいる、ということです。
世にたくさんある瞑想は、光や音だとか、神とか仏とか、いまの自分とは離れた別の世界に意識を向けようとします。いまここではなく、別の世界に行くものです。
◉いまこの自分から離れない
ブッダの実践法は、いまここの自分から離れません。
自分の身体に起きている事実、いま自分の呼吸。呼吸に伴って起きる変化。体が縮んだり膨らんだりする、その変化に気がついているのです。
何かに一心に集中しているのではありません。とくに一生懸命に励むというのでもありません。リラックスしていて、不断に、いまここの自分に気づいているのです。
何が起きても、何があっても、そのことによく気づいている。
例えば、人がしゃべっている。光がある。音がする。地面が揺れている。そのことに、ちゃんと気づいていて、そのことに動揺しない。リラックスしている。すなわち現実に直面しているわけです。
◉自己観察、自己洞察の道
この実践法を、「ヴィパッサナー」といいます。「ヴィ」とはよく、「パッサナー」とは気づく。自分自身のありように、よく気づいているということです。
この実践によって、何にも依存しない生き方が可能となるのです。その道こそが、安楽で平穏、迷いと苦しみのない道だとブッダは説いています。
仏教書の企画案づくり、練っているところ。いまのところ、効能書きレベルの企画書だけど。
①コロナ禍にあって、人々は大きな不安を抱えている。政治も経済もグダグダ。みんな途方に暮れている。
②人と人は分断され、ひきこもり、孤独になって不安は募るばかり。生き方そのもの不安、経済苦、病気との不安、なによりも死の不安が訪れる。
③頼りになるものがない、安心がない。何をしていいのかわからない。
そこで、こんなタイトル。
「ブッダ究極の教え 犀の角のように独り歩め」
「ブッダ究極の教え まったく依存しない生き方」
帯のコピー案:
仏教とは生き方そのもの。仏教の学びとは、生き方を学ぶこと。悩み、苦しみを超える道。
何があっても、いまここを楽しんでしまう。それが仏教的な生き方。
いまこの瞬間に生ききる。すべてが「いま」にかかっている。それが仏教の生き方、完璧な生き方。
人はいつでも、学ぶことができる。死の瞬間まで学ぶことができる。
何もしなくても、どこにいなくても、大丈夫。ひとりでも大安心していられる。日々の暮らしの中に平安と喜びを見いだせる。
いまここの自分に大安心する道。自分の心を治めることですべては解決していく。
人は必ず死ぬ。自分は死ぬ。親しい人も死ぬ。その現実に直面する。
いまここで実践できる道。自ら確かめることのできる道。
原始仏典からダイレクトにブッダの教えがわかる。枝葉ではなくて、ブッダの根本の道を示す。
仏教書の企画書づくり。だいたいの方向性をまとめた。
ブッダの教えは、いまの現実から離れない。どんなことがあっても、動揺しない。なにかに熱中したり、集中するというものでもない。不断に覚めていて、気づいていてリラックスしている。……そんなところを軸に作っていこうと思っている。
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たまたまきょう、Sさんを訪ねて話を聞いた。
Sさんは、うちのオープンテラスで石の地蔵を彫りに来る。以下、Sさんの話から。
地蔵を彫ろうというそもそもきっかけは、コロナによって自粛の暮らしになったからだ。
いわば、引きこもり。行くところもない。ただ座ってテレビを見るだけの暮らし。話し相手もいない。なにをやるにしても、面倒になっていった。
そんなとき、「30年前に事故で亡くなった息子の供養に地蔵を彫りたい」と思っていたことを思い出した。
師匠を探した。これも不思議な縁で、すばらしい師匠に出会った。
さらにFacebookでやりとりしていて、池谷さんを訪ねた。施設「みんなの家」は豊かな自然に囲まれて落ち着いたところにあった。そのオープンテラスを使わせてもらうことで、自然な流れで、地蔵を彫ることが実現していった。
彫っていると、とても集中してくる。
集中しているが、一心不乱に熱中しているわけではない。
彫っていながら、落ち着いている。おだやかで覚めている。
先日、透析中に大量出血した。
コロナ渦のために、病院に行っても、PCR検査で90分も待たされた。そのあいだにまた大量出血した。普通なら、いのちにかかわる危機だ。
しかし、そんなときでも、パニックにならなかった。落ち着いていられた。それは、こうして地蔵を彫っていたおかげと思う。
彫ることで、自分が救われていると感じる。
Oさんの別荘。ほとんど利用されていない。こんなすてきな家なのに、もったいないこと。
Oさんから「活用してもらえないか」ということで、友人たちとお訪ねした。
川のほとりにあって、夏はとても涼しい。ホタルがあらわれて、家の中まで入ってくる。ちかくに鉱泉がでる。天然杉がふんだんに使われていて、波動が柔らかだ。岩盤浴のできる設備もある。
リトリートのできる家として、介護予防のワークショップ会場としても、なにか活用の道がありそうなんだけど。まだわからない。
その別荘の前には、Sさんが住んでおられる。ひとり暮らし、91歳。昨年まで、急峻な山に生えている杉の大木をひとりで、次々と切り倒しておられた。まさに達人だ。こんど、そちらに遊びに行くよと言ってくださる。
利用者さんの送迎を毎日行っている。
見知らぬ人でも、フツーに声をかけてクルマを止めて立ち話することがよくある。
「知っている人?」
利用者さんがそう聞く。
「いいえ、知らない人だよ」
利用者さんは驚く。まあ、まったく見知らぬ人でも、友人のようにフツーに気楽に声をかけて、フツーに話が続くというのが、ひとつの個性というか得意ワザかな。
しかし、山里のおじさんは、無愛想な人が多い。ぶすっとして挨拶も返事もしない人もいれば、一言でおしまい、取り付く島がないという人も多い。縁があればそこから動くし、なければそれでおしまい。それはそれで問題なし。
かといえば、初対面でもニコニコして、とっても楽しい人にも出会う。
きょうは、いきなり話しかけたおじさんと小一時間の立ち話となった。
80歳でひとり暮らし。高さ10メーターにもなる杉の大木にハシゴを掛けて枝打ちする。
樹齢60年くらいの杉の巨木を、これから10数本切り倒す。バックホーで家を解体して、処分する。
これからこの森の木を伐って、ここを解体して、娘の会社の保養所を作ることになった。こういうことをやる、ああいうことをやる。ついでに、薪がたくさんあるので、いつでも持っていってくれ。あした、ここに並べておくよ、と。軽トラ貸してやるので持っていけばいい。
ま、そんなふうに一人と出会って、そこからひろがっておもしろい展開になることもある。
子どもを扶養する義務は両親にある。離婚する時、子どもの養育費について、双方で合意し念書を交わすのがよい。しかし、それが確実に守られるかどうかわからない。いつしか反故になる場合も多い。
そこで、ひとつきちんとした手続きを踏んでおくのがいい。
それには、家庭裁判所の調停手続を利用することだ。
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調停手続では、離婚そのものだけでなく、離婚後の子どもの親権者を誰にするか、親権者とならない親と子との面会交流をどうするか、養育費、離婚に際しての財産分与や年金分割の割合、慰謝料についてどうするかなども話し合う。
調停の申立するに、大したお金はかからない。
収入印紙1200円と連絡用の郵便切手代のみ。必要書類は、申立書と夫婦の戸籍謄本(全部事項証明書)を添付。
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調停の進め方。
裁判所から期日を指定されて、だいたい月に一度、話し合いがある。といっても、双方が話し合うわけではない。顔も合わせない。
裁判所の調停員とのやりとり。数々の事例体験を元にしたプロだから、整理されて明確になっていく。といってもも、半年はかかると思う。
①養育費の金額は、自分の収入や、相手の収入等を考慮して算定される。
②養育費と学費をわける考えもある。養育費を月「額○円」と定めるとともに、高校や大学費の学費を負担する義務もたせるよう交渉する。
③合意すれば和解調書が作成される。それは裁判の判決と同じ効力が発生する。
④相手には、養育費の支払義務が生じる(実際に支払えるかどうかは別問題だが)。
⑤もしも支払われないときは、家庭裁判所に養育費請求調停申立てを行う。
⑥あるいは、強制執行できる。相手の預金、給与等の財給与や資産の差し押さえる。しかし、手続きが手間なので、実行はなかなか難しいが。
もしも相手が出席しなかったり、双方が合意できなかったときは、調停は不成立。そこから、審判ということになる。こちらは、一年くらいは時間がかかる。
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知人が離婚するというので、すこし整理してみた。以上、メモ書き。
この山里では冬のキャンプが繁盛している。そんなキャンプ場で、川沿いにテントを張って、中3の女子が練炭自殺した。先月のことだ。また、ちかくの川沿いで、首吊りをはかって救急搬送された人もいたと聞く。
中3の女子はSNSで出会った30代の男と一緒に死ぬことにしたらしい。その女子はなくなったが、男は「自分だけ生き残ってしまった」という。
たまたまその現場に行った。気田川の前にさあっとひらけた、爽快なキャンプ場だ。
キャンパーに声をかけて立ち話したら、「あそこで、練炭自殺したんだよ」という。
真相はよくわからないが、なんでも医者の娘で、進学校に受験したが不合格だったのを悲観したとも聞く。7年前にその中学で講演を頼まれたことがあったので、その子たちの整然としたお利口そうな姿とかぶる。
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若すぎる。ざんねんすぎる。可能性が無限の宝のようにいっぱいあるのにもったいない。
本人にしたら、いい高校、いい大学、医者の後を継ぐ。その道しかないと思ったのだろうか。その世界しかない、そこに至る道が閉じてしまい絶望に陥っての自殺なのだろうか。
いまの時代、高校や大学などどうでもいいと思う。どんな環境にいても、インターネットを通して学べる。本から学べる。むしろ、働いて実社会での学びのほうが、価値があると思う。医者とか特別な資格を得るには、高校や大学は必要なんだろうけど。
あるいは、インドやら東南アジアにでも旅でもしたら、人生観は大きくストーンと大きく変わったろうになあとも思う。
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死んでしまったらそれでおしまい。自殺というのは、死後も苦しむ。後悔する。呪縛霊になる。なにより残された人が悲しむ。つらい。ゆえに自殺はよくない。
そういう考えが主流と思う。
しかし、そうだろうか。ぼくはそうはおもっていない。
もしかしたら、どんな死に方をしても、死の世界はゆうゆうと広がる、安穏とした素晴らしい世界かもしれない。死んで戻ってきた人は、だれひとのいないから、そこはだれもわからない。
ときに死者や先祖を霊視する人がいたりするが、さてどこまで真実なのか、その人の思い込みも主観もあるから、にわかに信じがたい。
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いろいろな死に方がある。楽に逝きたいものだと、施設の利用者さんとはいつもその話になる。ぽっくりがいいんだけど、そうもいかない。とても難しい。
死は恐ろしい。しかし、死そのもそのは、瞬時のこと。しかし、死に至るまで、じわじわし苦しみ、痛み、不自由になって、希望を失い……それがつらいということだろう。そのつらさから離れるために自死を選ぶ人もいるわけだ。
自死の方法としては、練炭自殺が流行りではある。まあ、眠っているうちに逝ってしまうのは。首吊り、入水、身投げとなどよりは、いいかもしれない。
自ら死を立ってもいいと思うし、生きていていもいい。いろいろな選択肢がある。
それしかないというこは不自由だ。いろいろな道がある。自ら死を選んでもいいという選択肢だってある。それはまた、いまの生き方を真摯に生きることにも通じる。いつでも死ねる、死んでいいという選択肢があるのも、なにか安心というか、安全弁というか。そのことで、また生を精一杯生きられるような気もする。
ぼく自身は、自死を選ぶとしたら、断食死が一番の理想なんだけどね。過去10日間の断食を二度経験して感じたことで、爽快に逝けそうな気がしている。