過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

LSD実践中

煌々とかがやく満月の下、こんな夜中に走ってきた。月の光を浴びてたった一人で走っている。「こりゃあ、なにか神事みたいだなぁ」と思ったよ。

3日坊主を実践中。きょうで3日目になる。トラック10周走っている。
走ると言っても、 ゆっくりだ。歩くくらいの速さ。

LSDだ。効果大。
といっても。クスリのそれではない。
LSD(Long Slow Distance:ロング・スロー・ディスタンス)

1周400メートルが3分半くらい。1キロあたり、9分。
そんな感じで走る。

ありがたいことに、施設のすぐとなりがトラックなのだ。イノシシが川を超えてやってきてくるくらいで、だれもいない。ひとりで悠々と闇夜を走る。

刺繍で作られた精緻なチベットマンダラ(タンカ)の出版企画

刺繍で作られた精緻なチベットマンダラ(タンカ)を500余点所有している方がいる。
中国のお坊さんだ。信仰的にも、チベットの精神世界的にも、美術的にも貴重なもの。
これらのタンカをきちんとした図版にして、世界に出版したい。チベットマンダラと法具を展示する美術館を、広東省の深圳(シンセン)につくりたいという。
そこで、チベット仏教に詳しい専門家チームを形成して、現地で現物確認、撮影、執筆、偏集する。

 そのための出版のエキスパートのチームを形成する。そこで、出版と美術館設立をコーディネイトしてくれる人材がほしい。

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というような、雲をつくような話がある。先日、関係者から依頼があった。いまやりとりをすすめているが、「5月に現地で打ち合わせに行きましょう」といことになった。
「うわっ、またとない機会。行きたい」。でも、コロナウィルスの問題がある。それに、このデイサービスの事業を休めない。残念。
ともあれ企画書を作り、出版に向けての予算組、段取りをすすめているところ。

 なにをしたいのか、するのか。その意義や背景は。

実行主体はどこなのか。予算の裏付けは。いつまでに、なにをするのか。ロードマップづくり。
それらを明確にしていくことによって、スポンサー、実行側のスタッフ、関わる人たちの考え方、方向性があきらかになる。協力を求める人たちに対して、アピールしやすい
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出版と美術館設立は、チベットの精神文化を継承する意義がある。世界の人たちが、その本を見て、あるいは美術館を訪れて、チベット文化、チベット仏教の深遠さを体感することにもなる。
チベットマンダラは単なる美術品ではない。礼拝の対象であり、修行の本尊である。チベット仏教チベット人の精神文化のシンボル。そこに対する敬意が必要。そうした思いがあってこそ、いい本ができ、美術館ができていく。
いやたとい、たんなる美術品として扱われたとしても、そこには深い精神性が流れているので、自ずとその力は伝わっていく。本物は水が高いところから低いところに流れるように。
そうして、いまの中国にかけているのは、その精神性ではなかろうか。
共産中国になって過去の中国の精神文化を枯れさせてしまった。物質的な繁栄の基盤である精神性が脆弱だと、いつか瓦解する。
その意味でも、チベットのタンカを世に発信していくことは、中国文化に対する、反省、ふりかえり、源泉に回帰することを求める動きになりうるかも。
……なんていうことも考えた。ま、ともあれいまは、本業のデイサービスにエネルギーは集中せざるをえず。
 

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この施設で結婚式やったら

「いっそのこと、この施設で結婚式やったら」と提案した。
非常勤で週一きてくれているスタッフは、いま新婚。結婚式を神社であげる予定であった。あれこれ話しているうちに、そうなった。
神式の結婚式にしたいなら、ぼくが神主スタイルで祝詞をよんでもいいし。みんなで食事を作り、歌ったりおしゃべりしながらのパーティーの提案。
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施設は、40〜50人は集まれる。みんなでつかえるキッチンもあるし、カレーパーティにしてもいいし。すぐ前がホタルがでる公園。そして、桜並木がある。
結婚パーティは、桜の花が咲く4月の初め、あるいは5月の新緑の季節がいいか。
ま、そんなふうに、この施設としての箱モノを多様に活用できるかと思う。
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子育てにがんばっているお母さんと子どもたちが、一緒に料理して食べるだけの集い。あるいは、亡くなった人の密葬だってできる。コンサートもできる。
3月には、「それぞれの見守り、看とり、平穏死」の講座を2本。歌、アイルランドの笛、ギター弾き語り、クリスタルボウル、チンドンヤ、アコーディオンのコンサートが6本企画している。

コロナウィルスは、拡散してもいいという政策じゃなかろうか

日本政府は、コロナウィルスは、拡散してもいいという政策じゃなかろうか。
というのは、このウィルスは、免疫の弱い人が死ぬ確率が高い。若い人、元気な人は感染しても回復する。
ということは、お年寄り、病弱な人が亡くなることになる。
すると、老人医療費や年金など、圧縮できる。そんなことをねらっているのかと思うほど、後手後手の感じがする。
友人と話していて、そうかもしれないと思ったこと。

新しいことを始めるのは、満月から

きょうは満月。新しいことを始めるのは、満月からがいい。
うちの施設の隣が、ホタル公園で夏にはホタルが出る。そして、その隣に広いグランド。日曜の少年野球と老人のグランドゴルフに使われるくらいで、いつもほとんどだれもいない。イノシシが夜中に土を掘っくり返しにくるくらい。
運動不足と気力・体力不足もあり、一念発起。毎日、そのグランドでジョギングすることにした。まずはゆっくりと一周。明日から少しずつ、増やしていく。
そして、ありがたいことに、うちの施設は廊下が長い。歩けば60歩以上もある。あかりとよく、追いかけっこをする。この廊下をつかって、歩く瞑想を試みよう。

テレビは、思考能力を奪う。時間泥棒である

著作が30冊くらいあって、つねに研究にいそしんでいる80代の大先輩。明治時代の新聞を国会図書館から取り寄せて、それをコピーして付箋を付けて整理するような研究家だ。
年末に、救急搬送された。一ヶ月の入院であった。しかしもう退院されて、元気なお姿に安心した。
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氏はネットはやらない。入院中は、暇で暇で仕方がない。ひとり暮らしであったし、友人たちに内緒にしていた。
見舞いに来られると面倒。退院すればしたで、快気祝いとか煩わしいという。そのため、読みたい本も読めず。貸本屋が巡回してくるので、それを読む程度であった。
テレビを見るくらいしかやることがなかった。寝ながらテレビを見た。相撲など見る人ではなかったが、「ついに15日間、相撲を全部見てしまったよ」と笑う。
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こないだ、ある人に「いま、世の中で何が問題になっているの?」と聞くと「芸能人の不倫だ」と言っていた。
いまなら、コロナウィルスだろうな。桜を見る会など、もうみんな関心は失っている。
テレビをつけると、バラエティ、お笑い、スポーツ中継、どうでもいいニュース。漫才やら食べ物のこと。
いろいろ問題がたくさんあるのに、ほとんどテレビではやっていないんじゃなかろうか。
FTA、遺伝子組み換え食品、放射能の汚染度の土壌改良や公共事業に使うこと、原発のプール内に溜まったトリチウムを海に流すこと、種子法のこと、イランに派兵された自衛隊のこと。水道・森林・インフラの民営化のこと。
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テレビは、思考能力を奪う。時間泥棒である。大切な情報を流さない。どうでもいいノイズばかり。不倫がどうの、芸能人のクスリだの、おいしいラーメンだの、そんなことばかり。
わがやは、テレビを押入れに入れてもう5年間になる。全く不自由はしない。重要な情報は、Twitterなどで得ている。ポイントになる動画も、Twitter経由だ。
英語がラクラク読めれば、BBCなどすぐれた放送局のものなどから情報を得たいところだけれど、それは無理。ざんねん。

籠づくり教室

きょうのデイは、ゆきさんによる籠づくり教室。鉛筆立て、お菓子入れ、買い物かごなどをつくった。かならず完成できるので、達成感が得られるようだ。
材料費はタダ。新聞を束ねるPPバンドでつくる。新聞店の人がゴミとして捨ててしまうのを、届けてもらった。秋になって、山葡萄やあけびのツルなどが手に入れば、籠づくりはさらに本格的になると思う。
それから、荒川夫妻が来てくれて、自分の波動にあった天然石のパワーストーンでブレスレットを作った。こちらも、人気があった。
来週あたりから、飯尾さんによる毛糸編みの教室もスタートしそう。

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アパシー(無気力状態)、アノミー(社会の規範が弛緩・崩壊)になって

ルールのないゲームは、勝てない。あるいは、相手がルールを握っていると、勝てない。4歳の娘とゲームしていて、痛感する。
あるいは、相手があまりにグダグダすぎるとゲームにならない。
相手が「ヌカに釘」「暖簾に腕押し」だと、勝てない。こちらが疲れ果ててしまう。モチベーションが上がらない。ゲームを放棄してしまうことになる。
いまの安倍内閣のありようだ。
こちらは、生活防衛に必死で、政治になにか訴える余裕も、気力も、時間もない。
ということは、完全に国民は、アパシー(無気力状態)、アノミー(社会の規範が弛緩・崩壊)になって、政治的空白が生まれ、権力者はやりたい放題、独裁体制に移行してしまうのだろうか。
こうして日本は滅亡の道を歩み始めるわけだ。いっぽうで、忍び寄るパンデミック

こうしていま、生かされている日々に感謝して生きるしかない

つねに一寸先は闇。その闇の中を歩む日々。
歴史を見てみると、全地球規模の広範囲に及ぶ流行病(パンデミック)が起きる。
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かつて、スペイン風邪が大流行。
1918年から1919年のことだ。感染者5億人、死者5,000万~1億人。
当時の世界人口は18~20億人と推定すると、全人類の3割近くがスペイン風邪に感染。日本では、39万人が死亡した。
14世紀には、ペストが大流行。世界で1億人ほどの人々が死んだ。ヨーロッパの全人口の30%~60%が死亡したしたという。イギリスやイタリアの街や村の中では、人口の80%が死亡した。
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いま、パンデミックの可能性が叫ばれているのは、新型コロナウイルス
中国本土では、死者は560人を超えた。中国のことだから、実際のところ、その10倍くらいの死者かもしれない。
いま世界中で感染者が増え続けている。パンデミック間近なり。
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そうなったら、うちの施設は当然、閉鎖。事業は止まる。
そんな悠長なことではない。わが身も家族もいのちが危ない。
まあ、こうしていま、生かされている日々に感謝して生きるしかない。

マインドフルネスのウォーキング

利用者さんに、ヴィパッサナーの入り口をリードしてみた。ヴィパッサナーとは、ヴィ(よく・しっかり・ちゃんと)パッサナー(観る)ということだ。
なにを? 自分である。
自分とは、自分の「動作」「行動」「感情」「心の動き」である。
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自分をみているようで、なかなかみていない。とくに、人間は思考する動物。思考していると、自分が見えない。
考えている自分がいるが、そこに自分のありようがスキップされている。考えるとは、すなわち、自分自身のありように注意深くなっていないともいえる。
あっ、難しい話になってしまった。
もとに戻る。ともあれ、「自分の動作に気づく、観察する」というところが、とてもたいせつと。
とはいうものの、ここはデイサービスなので、瞑想をリードしているわけじゃあない。しかも、利用者さんは80代、90代の方が多い。
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今回のリードは「転倒予防」のためである。
高齢者でいちばん怖いのは「転倒」。なので、「転倒予防」のために、ヴィパッサナーを導入してみたということだ。
具体的には、どうするか。
まず、机の縁を両手で持って立ち上がる、そして座る。それを、とてもゆっくり意識的に行う。息は詰めない。自然な呼吸がいい。
そして、立ち上がったところで、歩いてもらう。
とてもゆっくり、ゆっくりだ。あたかも重病人が、やっと歩き出すような感じ。
たとえば、右足の踵をつける、足の指をおろす。左足のかかとを上げる、足を運ぶ、左足の踵を下ろす。足の指を下ろす。
そんな感じで、一歩一歩をとてもゆっくり。
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最初はよろけたりする人もいるので、隣で腕を持って介助しながらだ。
こうして、ゆっくりと歩く。そして、止まってみる。向きを変えてみる。そして、また歩きだす。
机までたどり着く、机に両手をつけて、ゆっくりと腰を下ろす。
こんな流れである。
効果がすぐに現れるわけではないが、歩行訓練、ストレッチ、注意深く歩くという意味で、転倒予防になりうるかとも思う。軽度認知症予防になるかもしれない。

「転倒予防」とヴィパッサナー

「できるだけ、自然の呼吸でゆっくりやる」「イタ気持ちよさを味わう」「伸ばす・伸ばす。そして、フッと息を吐いてリラックス」。きょう利用者の方をリードしたことだ。
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「できるだけ、ゆっくりやる」……反動を使わない。息をつめない。「立つ」にしとも、ほんとうにゆっくり。立っていることを、足の裏で感じとる。「座る」ことも、ほんとうにゆっくりと。そして、椅子に座るおしりの感覚に気づく。ゆっくりだと、なかなか筋力も使うことになる。
「イタ気持ちよさを味わうこと」……伸ばしたりするとき、イタ気持ちゆさを味わってください。それが、効くんですよ。でも、ほどほどに。無理をしないで。
「伸ばす・伸ばす。そして、フッと息を吐いてリラックス」……手をのばす時は、限りなく伸ばす。そして、フッと息を吐いて、リラックス。
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首を曲げるにして、腰をひねるにしても、すべてこの感じでやってみた。まだ、よくわからないが。
やがて、一歩一歩、ほんとうにゆっくりと、足の裏の感じを味わいつつ歩いてみるということをやってもらおう。
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これらのことが、「転倒予防」になると思うし、なにより自宅で、いつでもできること。そして、感覚が鋭敏になると、とても深い楽しい境地になるのだ。
ま、まさにマインドフルネス、ヴィパッサナーの世界なんだけど、なにしろデイサービスでは、そこに繋げられない。
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しかし、いちばん勉強になるのは、リードする自分自身だ。
利用者さんの、首とか頭のマッサージをさせてもらったとき、相手の「ああ気持ちいい」という反応もいただいて、とても学びになった。そして、そういうマッサージは決して疲れないのだ。逆にエネルギーを頂く。

劣等感と優越感と


ふりかえれば、自分のダメさにとことん気づかされるところから、這い上がって、自分の個性を磨いてきたんだと思う。そこから強みがわかってきた。
けれども、やがてうまくいくようになって、それが勢いづいて、優越感につながる。すると運気を失って、墓穴を掘ってまたダメになる。
そうしてまた、ダメダメさに気付づかされて、それを支点にして、たちはだかっていた大きな岩をころがして、自信をつける。
けれどもまた、ヘンな自信を得て、また墓穴を掘る。……みたいなことの繰り返し人生かなあ。
茂木さんがいうように、劣等感のほうが優越感よりも遥かにマシと、すこしわかってきたような気がする。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=O7gKNdAyIfI&feature=emb_logo

「転倒予防教室」の講座をひらいていこう

S大の院生のNさん(理学療法士)とやりとりした。かれの研究テーマは「転倒予防」だという。
いまデイサービスを運営し、利用者さんを観察していて、いちばん気をつけるところは、「転倒予防」だ。
年をとると、足腰が弱る。足がもたつく。つんのめる。
立ち上がるとき、トイレに行くとき、ふらついたりする。倒れたらたいへんだ。その勢いで、大腿部を骨折することもある。
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骨折したら、入院しなくちゃならなくなる。
長期入院すると、筋力が落ちる。せん妄が起きたりする。痩せる。認知能力も落ちる。
つるべ落としのように、生活機能、生命力が衰える。
寝たきりになることもある。
本人が一番つらい。
そして、家族がつらい。
家族が病院へ通うのはたいへん。こちらのような山里だと、病院までの往復が100キロくらになったりするので、すごくたいへん。心労も経済的な負担も大きい。
ということで、高齢者で一番気をつけるのは「転倒」。
その予防には、どうしたらいいか。
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関節の可動域をひろげる。錆びついた関節をまわして、ゆるくする。縮こまった筋肉を伸ばしてあげる。ヨーガや気功の動きもいい。息を詰めず、反動で動かさず、ゆっくりとじわじわと伸ばす。イタ気持ちよさを味わう。自分の身体と対話する。
暮らしの環境整備も大切。手すりをつける。歩行車を活用する。障害物を除く。バリアフリーにする。いろいろとある。そのための費用はどうするか。介護保険適用のこともある。
では、具体的に、ひとり暮らしのお年寄りは、どのように行動したらいいのか。どういうサポートが得られるのか。
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そんなところで、Nさんと「転倒予防教室」の講座をひらいていこうと話した。
NPO法人もつくって活動したいともいう。いろいろサポートするよ、民間や行政の助成金を得るための企画書の作り方なども、アドバイスするよ、と。そんな話をしたのだった。

生きていればこそ、こうして、さまざまな現実を体験させてもらえる

山登りを終えた人たちが、下山して茶店などでのんびりくつろいでいる。「ああ、いい山だったねー、楽しかったねー」と。その人たちを尻目に「これから登ります」と、登っていくようなわたし。
 
「ええ!こんな遅くから登るの?もう日も暮れてきたし。それに頂上は吹雪だよ。なんて無謀な」と言われながら、「いや、登ります。もう戻れないし」というような生き方しているのかもしれない。
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マゼランは、長い航海のなか、南アフリカの最南端の暗くて寒くて長い海峡をわたっていく。沈黙した黒い海だ。その先には、広大な太平洋が広がることなど、彼らにはわかるはずもない。海図などない。あてもない航路だ。地球が丸いということも証明されていない時代だ・。
 
「この先は、はたしてあるのだろうか。そこは地獄の入り口かもしれない。舟は奈落に落ちてしまうかもしれない。でも、引き返せない。行くしかない」。そんな気持ちで、進んでいったことだろう。あたかも幽霊船、難破船のごとく。
 
まあ、そんなマゼランの航海のような人生を生きてきたようなん気がする。これからの人生もそうなるんじゃないかと。まあ、それはそれで、自分が選択した道なので仕方ない。自分の学びのために、自分が用意した現実である、と。
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深夜に、ヴィヴァルディの「四季」を聴きながら、これを書いて思い出した。
 
17歳のとき、交通事故で二度ほど死にかけたことを。
 
一回目は、自転車ごと車にはねられた。クルマの勢いでフロントガラスに頭をぶつけて、室内に飛び込んだ。突然、ガラスの砕ける光り輝く異次元の世界に入ってしまった。そして、半年後、坂道を自転車で急ブレーキ、後は覚えていない。頭から落ちて意識不明となった。救急車で運ばれた。人だかりの声がして、担架で運ばれたことは、かすかに覚えている。
 
そうだ、あの時、死んでいたか、半身不随の身体になっていたかもしれない。
 
でも、こうして生かされてきたんだなあ。生きていればこそ、こうして、さまざまな現実を体験させてもらえるんだ。生かされているだけで、ありがたいこと。すばらしいこと。まずはそこから。