過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

妻がいよいよ末期医療に入ったと相談受ける

「妻がいよいよターミナルに入った」と、友人が相談に来られた。60代からのアルツハイマーで、いまは施設におられる。2年前には、心筋梗塞になり危ぶまれた。今回こそ、「いよいよだ」という。
もはや食事はできなくなり、栄養は点滴でつないでいる。 点滴注射もせず、口から一滴の水も入らなくなった場合、亡くなるまでの日数、7日から10日ぐらい(世界で最長でも、14日間のようだ)。
いずれにせよ、いつかは亡くなるわけで、「手づくり葬」の打ち合わせに来られたのだった。


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すべて手づくりでいく。
まずは、「柩」(ひつぎ)。天竜杉で作る。釘を使うと火葬場では嫌がられるので、接着剤でいくか。いや、杉でもかなり重たくなる。
では、厚手のベニヤはどうだろう。曲線を生かしたデザインが可能だ。しかし安っぽい。ならば、表面は自分で漉いた和紙(これがとても美しい)を貼りめぐらせればいい。
「葬儀」。身内だけ、親しい人だけとする。坊さんも神主もよばない。自分たちだけで、行う。戒名など無用。
奥様が好きだった井上陽水の「少年時代」をかける。そして、カタロニア出身のチェロ奏者、パブロ・カザルスの「鳥の歌」。
「鳥たちは、空に舞い上がり、PEACE、PEACEと鳴くのです」というカザルスの語る言葉は、胸に染みてくる(カザルスの亡くなる2年前に国連で語り演奏したもの)。
「枕元の絵」。仏像など必要ないか、と聞くと、いらないという。では、友人(玉利直江さん)の絵を飾ろう。過去・現在・未来と枯れて散っていく蓮の花。「うん、それがいい」ということになる。
「骨壷」。陶器のものでは土に還らない。木製のものを作る。これは、木工の得意な友人に依頼した。「手元供養」の入れ物。美しい木の遺灰入れを作る。


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世の中、お金を出せば、それなりの荘厳なセレモニーは可能である。 
しかし、もっともたいせつなことは、「心がこもっているかどうか」に尽きる。
それには、やはり「手づくり」がいい。手づくりの過程にこそ、いろいろな思いが、心が、気持ちが入っていく。通じていく。
自分と友人が手作りで、葬儀を行う。身内だけで親しい友人だけで語り合いしのぶセレモニーとする。そんなことを打ち合わせしたのであった。

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どもたち同士、自由に気ままに遊ぶのが楽しかったんだ

「きのうは楽しかったね」とあかりは言っていた。こどもたち同士、自由に気ままに遊ぶのが楽しかったんだ。

昨日も一昨日も、春野の山の村で行われた「ラブファーマーズ・カンファレンス」(5年目を迎えた全国有機農業者の集い)に出かけた。

孟宗竹でつくったジャングルジムとブランコ。となりの広場では、盆おどり大会。講座室では、家族農業、アグロエコロジー、自然暮らし、天職の見つけ方の講座やワークショップ。

一年ぶりに出会った友達があちこちに。再会と新しい出会いの場があるというのは、とても貴重なこと。

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はやければ10月からのスタート デイサービスの経営

消防署の立入検査にきてもらう。「防炎」のカーテン、間仕切り、カーペット、消化器類の点検、避難誘導の通路の確保などこまかく確認してもらった。無事、合格であった。一週間後に、消防法令適合の証明書を出してもらう。
デイサービス(近い密着型介護施設サービス)の事業を継承(居抜きでの営業)することになったのだ。
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はやければ10月からのスタート。いまの施設からバトンタッチだ。意図して進めてきたというよりも、縁があって始めることになったのだが。
この暮らしの拠点から、徒歩1分という至近距離に施設がある。
さて、開業のためには、いろいろな申請書と検査がある。わかりにくい書類が多い。午前中一つ、午後一つと、一歩一歩、完成していくしかない。倦まず弛まず、牛の歩みだ。
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消防はこれで一件落着だが、その他開業申請書類はたくさん。建築法令による、立面図、平面図、建築確認証明書などの発行。
やれ運営規程、防災体制と組織図、防災マニュアル、介護医療推進会議参加者の名簿、雇用契約、重要事項説明の書式、機能訓練指導員従事証明書、設備・備品等一覧表……。
その他、保険の見直しもある。クルマの名義変更もある。地主と借地権譲渡のステージも第2ラウンドがある。まだいろいろあることだろう
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たいせつなのは、デイの仕事の流れをつかまなくちゃいけない。営業にいかなくちゃいけない。
……というわけで、またまた新しいチャレンジをしていくことになってしまった。経営は、なにしろ初体験。この一年は、こちらに集中することになる。

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ついに、猿たちが来るようになったか

屋根のほうから「どどどど」っと音がした。「いったい、なにごと?」。外に出て見たら、猿の軍団が10頭あまり走っていった。隣家の屋根の上に登っていった。
これまで、鹿や猪はよくきたが、猿はあらわれなかった。ついに、猿たちが来るようになったか……。猿が来たら、畑など実った頃に食べられてしまうことになる。こりゃあ、みんなたいへんだ。

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竹の遊具でいつまでも遊んでいた

昨日は、5回目のラブファマーズ・カンファレンス(春野 山の村で開催)。あかりは、竹の遊具でいつまでも遊んでいた。お父ちゃんとしては、見守り続ける。
ジャングルジムとブランコと盆踊りの舞台など、孟宗竹を40本切って、10人で一日で仕上げたそうな。
今朝は幼稚園の奉仕作業。砂場の砂をジョレンとスコップで運び続けた。帰ってきたら、あかりと水風呂遊び。屋根からドドドと音がするので、外に出たらお猿さんの軍団がいた。それで、猿を追って、あかりとホタル公園にでかけた。
ゆやっとおちついて、これからまた、ラブファマーズ・カンファレンスに出かける。きょうは夕方から盆踊りかな。いろいろと体力いるなあ。f:id:ichirindo:20190901124432j:plain

 

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監視社会がすすむ日本

Facebookが個人情報を大統領選挙に提供していたことが伝えられている。

アメリカはアメリカの「愛国者法」(二〇〇一年一〇月成立)。監視社会が愛国心、テロ対策ということで急速に監視社会になっている。日本もそれに習っていくと思われる。

事実、「緊急事態条項」(非常事態の際に政府に権限を集中させ、国民の権利を制限:2018年3月25日に開かれた自民党大会 )の動きがある。

ナチスはこれによって、もっとも民主的と言われた「ワイマール憲法」を骨抜きにして独裁政権をつくた。麻生副総理は「ナチスの手口に学んだらどうかね」と発言している。

画像は、一人の男のデモに対して、ものすごい数の景観が取り囲んで警備している映像。もう一つは、「緊急事態条項」とナチスとの関係の講座。
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この法律は、今後国家の最優先事項となる「テロとの戦い」対策として、セキュリティを強化するという内容だ。

テロリストが国内のどこにいてもすぐ見つけられるように、国民の個人情報は政府がすべて管理する。国内でやり取りされる電話、メール、ファクスなども必要だと思われれば当局が内容をすべてチェックする。

思想的に危険だとされれば、飛行機に乗ることを拒否されたり、家宅捜査が入ったり、問答無用で逮捕されたりする。

たとえば図書館で誰がどんな本を借りているかについて、政府は、本人に無断でその貸出し記録にアクセスして、全部調べられるのだ。
(「社会の真実の見つけかた」堤未果著作(岩波ジュニア新書)より

https://twitter.com/japanesetruth/status/1165422802817564672?fbclid=IwAR3b7krnAzoNqPfppolNrRuTEnPVu4R8rverEJ3RGNzq47ZUqzYzkNRYrxA

https://twitter.com/i/status/1166486550613385216

国は、除染で出た土を全国で再利用する計画

「国は福島第一原発の事故に伴う除染で出た土を全国で再利用する計画」と。
残留農薬たっぷり・遺伝子組み換えトウモロコシの爆買い。
ともあれ、日本人を自滅、根絶やし、ダメにしようとしている政策と考えるとわかりやすいが。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/20190822/6050006613.html?fbclid=IwAR3mwyBIp5aWAZEQN6wjo8sKpVjUc5WyIUDzl0Ops5oUzkYoLlYzrPBuHn8

「生きがい特派員」の投稿

「生きがい特派員」(静岡県健康長寿財団)というのをやっている。仕事というかボランティアというか、縁があってというか。
年に10〜20本くらい投稿するのが主な仕事、あとは会議に年3回、静岡まで。
取材ネタ探しには困らないが、今回は、自分ネタで投稿した。

http://www.kenkouikigai.jp/archive/03/03ECRW@TPUPB5B.asp

福島原発の除染を行っている人の体験

かなしすぎる・愚かな現実。福島原発の除染を行っている人の体験。風評被害対策のために、「やってる感」を出すだけの除染作業に。

除染しても除染しても、数値は減らず。それはそうだと思あ。広大な森にたくさんの放射能が舞い落ちて、森は手付かず。そして、雨が降れば、汚染水は低いところに流れていくのだから。

https://twitter.com/i/status/1165193297939185664

テキストデータにする最大のメリットは、瞬時に「一括検索」できること

岩波書店の「仏教辞典」(800頁)をテキスト化して、自分のデータベースにしようと思い立った。テキストになれば、読み込んだとき大切なところはゴシックにしたりマーキングしたり、メモを加えたりできる。

まあ、仕事ではないので趣味として、気分転換としてやっている。ためしに「あ」から数ページ、OCRにかけてみたのが画像。

ちなみに、AdobeScanが便利。iPhoneで撮影して、それをPDFデータに変換し、GoogleDriveに転送。そこから、GoogleDocumentで開けば、OCR機能でテキストに変換されるというわけだ。
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テキストデータにする最大のメリットは、瞬時に「一括検索」できることだ。読みたい箇所をクリックすれば、そこのテキスト文書にジャンプする(タグジャンプ)。

そのためには、Editorにテキストを保管しておく。これはEditorでないと難しい。ワードのような文書ソフトは、余計な機能が多すぎて重たい、そして一覧表示がされない。

ぼくは20年分の日記をエディターに入れている。ひとつの単語で20年分のデータが即座に示されるので、業務日誌として使える。裁判などで戦うときなど、すごい威力になる。
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学び方に大きくは二つある。ひとつは、体系から細部に入っていく学び方。体系からディレクトリーに沿って深める、上から下へのプル型。こちらは、従来の学習方法だ。

もう一つは、固有名詞だけ取り出して、そこから深めていく。体系を理解していく方法だ。いわば百科全書型、タグジャンプ型、下から上へのプッシュ型。

インターネットが発達してくると、いきなり「固有名詞」を検索してそこから学ぶ方法になっていく。学びの仕方が変わってきたと思う。そこはGoogleの人類に対する巨大な貢献と思う。

ここで、さらに自分の読んだもの、ネットで「つかえるな。いいな」と思った文書をテキストデータにしておく、あるいはすでに読んだ名作などをテキスト化していく。それは、自分のライブラリーが、Google的になるということだ。
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それって、どういう価値があるのか、たんなる暇つぶしになるのか。そこはまだわからないが、ともあれ不明確なことが即座に明確になる、関連したものがみえてくるのは、幸せなことである。

いまはこの方式で読書している(OCRに検索かけて保管しようというものしか読まない)。ぼくの人生においては、まさに革命的な読書法になってきた。

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あらためて、ZOOMは便利と思う

マウイ島(ハワイ)で暮らしている方と二度目の出版の打ち合わせ。時間を決めて、ZOOMというネット回線のテレビ電話(無料)でやりとりした。
すでに原稿はできている。でも、出版社が「出そう」といってくれるレベルではない。そこをなんとか、うまい切り口を見つけてかたちにしよう、出版社につなごうというところ。
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どういうタイトル、ターゲットは、目次はどうする、企画書の作り方、可能性のある出版社、など。「どうしたものかねえ」という雑談会であったが。
HSP引きこもり20年からの脱却」というあたりがポイントとになるかなあ。
まぁ本人は、すでに「出版する、できる」というビジョンは、明瞭に見えているようだ。ものごとは4次元では達成されているが、しかし、この3次元の現実世界では、あれこれと試行錯誤の過程を楽しむというところか。
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あらためて、ZOOMは便利と思う。こんな山里に暮らしていても、全世界のどこでも、ネットさえつながればやりとりが可能なのだ。
ZOOMだと、画面の共有、ホワイトボードなどを使えば、スムースに確認ができる。150人までの講座や会議だって可能だ。
ところで、お互いに顔出しするわけだが、背景の部屋が映り込む。わがやの乱雑なのが、あらためて見苦しく感じられた。こりゃいかん。ということで、いま片付けに入っているところ。

 

結婚という暮らし

ひとり暮らしがすごく長かった。結婚して共同生活になると、わがままできず。ましてや子どもがいたら、もうたいへん。ま、しかし、苦労もするけど、語り合い、学び合い、気づきあがあるいうのは、人生の晩年、ありがたいこと。

秋から妻と一緒に新規事業にすすむ。いまは、あーでもない、こーでもないと、日々、相談しあっている。一人じゃ、まるきしできな

ひとり暮らしがすごく長かった。結婚して共同生活になると、わがままできず。ましてや子どもがいたら、もうたいへん。ま、しかし、苦労もするけど、語り合い、学び合い、気づきあがあるいうのは、人生の晩年、ありがたいこと。

秋から妻と一緒に新規事業にすすむ。いまは、あーでもない、こーでもないと、日々、相談しあっている。一人じゃ、まるきしできないんだもの。ありがたいこっちゃ。

田辺聖子さんの、なるほどという文章を見つけた。
「一生、自分と行をともにしてくれて、自分を守り、引き立ててくれるというのは、男にとって何という大きな恩恵であり、資産であろうか」と。
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男が女を選ぶのではなく、女に選ばれる時代になるのではなかろうか。男に養われる点ばかりが、今までクローズアップされてきたが、夫と妻、という形をようく考えてみると、養われ、生かされ、守られているのは、男・女のどちらであろうか。そこばくの金は問題ではないのだ。

男が女に子供を産ませ、家を守らせる、というのではなくて、女が、その男の子供を産んでやり、家をチャンとととのえてやり、男が世の中へ出て働けるようにしてやる、そのおかげで男は一人前の顔をして世渡りができるのだ。

実際、きちんとした躾を受けた娘、学歴を修得した娘、健康で健全な良識ある女が、一生、自分と行をともにしてくれて、自分を守り、引き立ててくれるというのは、男にとって何という大きな恩恵であり、資産であろうか。

私はかなり前から、男の子の教育は、一にかかって、一「いい女に選ばれること」にある、と、男の子を持ったお母さんは、ぜひそう躾けてほしい、と声を大にしていっているのだ。東大へ入れて役人にするより、その方がなんぼう大切なことか。

この男のためなら、よし、一丁、生涯かけてやってみよう、と「イイ女」に思いこませる、そういう「イイ男」に育ててほしいのだ。「男の仕事は、そういう「イイ女」とめぐりあうことも「男子一生の事業」の何割かは占めるであろう。男本人がいくらあがいても、ついてる女がつまらなければ、人生の開花は望めない。「イイ女」をひきつけるに足る魅力と迫力、可愛げを男の子に持たせてほしい。

そして女の子も、自分の値打ちをよく知って尊重してくれる「イイ男」を選ぶ、その能力を、女の子を持ったお母さんはつけてやってほしい。

男の子に可愛げを、女の子に剛毅果断、自立の精神を、というのが、私の年来のねがいなのであって、そうすれば、家庭における男尊女卑思想はなくなるかもしれない。

男の子だから、食後、テレビを見ていてもよい、女の子だから台所を流しなさい、という躾は私は反対で、将来、イイ女にみとめられる男に育てようとすれば、阿呆な生活無能力者にせず、どんどん、家の仕事もさせるべきである。

男の子だから女の子だから、という旧来のやりかたで育てられると、彼らが自分自身の家庭を持ったときに、歪みが出てくるのだ。

妻は旧来の家庭像に自分を殺してはめこむには堪えられなくなっている。家庭はその重みで、根太(ねだ)が支えきれず、ついに傾いでしまうのである。
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「一緒にお茶を」夫の生き方妻の生き方 田辺聖子著(角川文庫)より

いんだもの。ありがたいこっちゃ。

田辺聖子さんの、なるほどという文章を見つけた。
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かつて学校の家庭科といえば、女子だけが学び、男子は別の科目を学んでいた時代があった。しかし、今では家庭科は男女共修の科目となっている。「男子厨房に入らず」ということばは、もはや死語になったのである。とすると、これから先はどんな世の中に......。

男が女を選ぶのではなく、女に選ばれる時代になるのではなかろうか。男に養われる点ばかりが、今までクローズアップされてきたが、夫と妻、という形をようく考えてみると、養われ、生かされ、守られているのは、男・女のどちらであろうか。そこばくの金は問題ではないのだ。

男が女に子供を産ませ、家を守らせる、というのではなくて、女が、その男の子供を産んでやり、家をチャンとととのえてやり、男が世の中へ出て働けるようにしてやる、そのおかげで男は一人前の顔をして世渡りができるのだ。

実際、きちんとした躾を受けた娘、学歴を修得した娘、健康で健全な良識ある女が、一生、自分と行をともにしてくれて、自分を守り、引き立ててくれるというのは、男にとって何という大きな恩恵であり、資産であろうか。

私はかなり前から、男の子の教育は、一にかかって、一「いい女に選ばれること」にある、と、男の子を持ったお母さんは、ぜひそう躾けてほしい、と声を大にしていっているのだ。東大へ入れて役人にするより、その方がなんぼう大切なことか。

この男のためなら、よし、一丁、生涯かけてやってみよう、と「イイ女」に思いこませる、そういう「イイ男」に育ててほしいのだ。「男の仕事は、そういう「イイ女」とめぐりあうことも「男子一生の事業」の何割かは占めるであろう。男本人がいくらあがいても、ついてる女がつまらなければ、人生の開花は望めない。「イイ女」をひきつけるに足る魅力と迫力、可愛げを男の子に持たせてほしい。

そして女の子も、自分の値打ちをよく知って尊重してくれる「イイ男」を選ぶ、その能力を、女の子を持ったお母さんはつけてやってほしい。

男の子に可愛げを、女の子に剛毅果断、自立の精神を、というのが、私の年来のねがいなのであって、そうすれば、家庭における男尊女卑思想はなくなるかもしれない。

男の子だから、食後、テレビを見ていてもよい、女の子だから台所を流しなさい、という躾は私は反対で、将来、イイ女にみとめられる男に育てようとすれば、阿呆な生活無能力者にせず、どんどん、家の仕事もさせるべきである。

男の子だから女の子だから、という旧来のやりかたで育てられると、彼らが自分自身の家庭を持ったときに、歪みが出てくるのだ。

妻は旧来の家庭像に自分を殺してはめこむには堪えられなくなっている。家庭はその重みで、根太(ねだ)が支えきれず、ついに傾いでしまうのである。
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「一緒にお茶を」夫の生き方妻の生き方 田辺聖子著(角川文庫)より

太宰治の「たずねびと」という短編

戦争中の文学をいろいろ読んでいた。野坂昭如の「火垂るの墓」、高橋和巳の旋盤工の徴用工の体験、井伏鱒二池波正太郎の体験など。

太宰治の「たずねびと」という短編があった。さすがに太宰は、すらすらと読みやすい、おもしろい。

ほんとうに戦後は食糧難。餓死者が続出の時代。太宰も幼い子を連れて青森に帰る。たいへんな旅だ。いわば難民生活。お父さんもお母さんも、子どもたちもたいへんだったろうな。

以下、一部引用。全部読みたい人は、「青空文庫」で検索するといい。
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 昭和二十年、七月の末に、私たち家族四人は上野から汽車に乗りました。私たちは東京で罹災してそれから甲府へ避難して、その甲府でまた丸焼けになって、それでも戦争はまだまだ続くというし、どうせ死ぬのならば、故郷で死んだほうがめんどうが無くてよいと思い、私は妻と五歳の女の子と二歳の男の子を連れて甲府を出発し、その日のうちに上野から青森に向う急行列車に乗り込むつもりであったのですが、空襲警報なんかが出て、上野駅に充満していた数千の旅客たちが殺気立ち、幼い子供を連れている私たちは、はねとばされ蹴けたおされるような、ひどいめに逢い、とてもその急行列車には乗り込めず、とうとうその日は、上野駅の改札口の傍で、ごろ寝という事になりました。

その夜は、凄い月夜でした。夜ふけてから私はひとりで外へ出て見ました。このあたりも、まず、あらかた焼かれていました。私は上野公園の石段を登り、南洲の銅像のところから浅草のほうを眺めました。湖水の底の水草のむらがりを見る思いでした。

これが東京の見おさめだ、十五年前に本郷の学校へはいって以来、ずっと私を育ててくれた東京というまちの見おさめなのだ、と思ったら、さすがに平静な気持では居られませんでした。
(中略)
この下の子は、母体の栄養不良のために生れた時から弱く小さく、また母乳不足のためにその後の発育も思わしくなくて、ただもう生きて動いているだけという感じで、また上の五歳の女の子は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患わずらい、空襲当時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って焔ほのおの雨の下を逃げまわり、焼け残った病院を捜して手当を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子の眼があいたので、私たちもこの子を連れて甲府を出発する事が出来たというわけなのでした。
(中略)
 ああ、人間は、ものを食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう。
「おい、戦争がもっと苛烈になって来て、にぎりめし一つを奪い合いしなければ生きてゆけないようになったら、おれはもう、生きるのをやめるよ。にぎりめし争奪戦参加の権利は放棄するつもりだからね。気の毒だが、お前もその時には子供と一緒に死ぬる覚悟をきめるんだね。それがもう、いまでは、おれの唯一の、せめてものプライドなんだから。」とかねて妻に向って宣言していたのですが、「その時」がいま来たように思われました。
(中略)
ええ、もう、この下の子は、餓死にきまった。自分も三十七まで生きて来たばかりに、いろいろの苦労をなめるわい、思えば、つまらねえ三十七年間であった、などとそれこそ思いが愚かしく千々に乱れ、上の女の子に桃の皮をむいてやったりしているうちに、そろそろ下の男の子が眼をさまし、むずかり出しました。
「何も、もう無いんだろう。」
「ええ。」
「蒸しパンでもあるといいんだがなあ。」
 その私の絶望の声に応ずるが如く、「蒸しパンなら、あの、わたくし、……」
 という不思議な囁ささやきが天そらから聞えました。
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(「たずねびと」太宰治著)より

十分に上手に表現された怒りは、調和と両立するという道が

ひとりで暮らしている分には、だいたい人に出会わないので、「怒り」が出てくるということは、そんなにない。

家庭をもつと、それはやはり「思うようにならない」ことばかり。その人ならではの美学や思い入れがあるから、そのあたりはぶつかる。

ものの言い方、言われ方、ムッとして言い返す、その応酬になったりする。人生と怒りというのは、大きなテーマ。

怒りを発してうまくいくことは、ほとんどないからね。あとの残務処理で数倍、数百倍のエネルギーが費やされる。

なるたけ「怒らないようにする」ことがたいせつ。そういう境地でありたい。

とはいうものの、怒りは抑えられない。現実の世界に生きているということは、気づき、アウェアネスの実践のいい機会。なんだけど、そこがまた難しいわけだ。

平和的に、愛情あふれるやり方で、怒りを表現する方法があるのかもしれない。充分に上手に表現された怒りは、調和と両立するという道が。気分転換に読んでいるニールの本「新しき啓示」。以下、引用する。
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あなたは暴力と怒りをいっしょくたにしている。同じものだと言っているように聞こえるよ。怒りと暴力は同じものではないし、混同してはいけない。

怒りは自然な感情だ。ときには、怒りはとても自然なものだ。まったく差し支えないものでもある。つまり、あなたがたがほんとうに仲よく暮らしたいのなら、怒りは有効に機能する。

──何ですって?わからないなあ。わたしの体験では、怒りっていつも困ったものでしたよ。

それは、あなたが平和的に、愛情あふれるやり方で、怒りを表現する方法を知らなかったからだよ。

愛とともに表現されれば、怒りは不和を生み出すのではなく、解消する。

──はじめて聞きました。そんなふうに考えたことはありませんでしたよ。

怒りとは、本来そうあるべきものだ。システムに組みこまれている人間の一部だ。圧力抜きのバルブ、否定的なエネルギーを発散する弁だよ。あなたがたが困ったことになるのは、否定的なエネルギーを発散するからではなく、発散しそこなうからだ。

あなたがたの不安のもとは、怒りの表現ではなく、表現のしかただ。物理的暴力であろうが、言葉の暴力であろうが、暴力とはいっさいかかわりなしに怒りを発散する方法はたくさんある。そういう怒りの発散のしかたを知っているというのは、成熟のしるしだ。

──どうすればいいんですか?

方法はたくさんあるし、いまでは教えてくれるひとはおおぜいいるよ。怒りの処理を学ぶクラスに入るひともいる。瞑想を学ぶひともいる。それから、自分とは何者かということを決意しなおして、それで怒りの表現方法を選び直すひともいる。

愛のある怒りの表現方法を本気で学ぼうと思えば、学ぶ場所はいくらでもあるよ。ここでは、怒りは否定的な感情ではない、怒りは癒し手だということを理解しておきなさい。

怒りは否定的なエネルギーを発散させる。それによって肯定的な感情になる。自分がもっていたくないものを捨てて、調和的に生きる助けになるからね。

怒りと調和は両立する。充分に表現された怒り、驚くほど癒す力をもった怒りは、驚くほど上手に表現された怒りであり、人間と人間の瞬間を豊かにしてくれる。それは、ほんものであり真実だからで、これほど偉大な癒し手はないし、これほどの調和への近道もない。

ただし、上手に表現されなかった怒り、言葉の暴力と物理的な暴力を通じて表現された怒りは、癒すどころか、傷を負わせる。傷害で傷を癒すことはできないよ。いくら努力してもね。
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「新しき啓示」(ニール・ドナルド・ウォルシュ著 サンマーク出版)から

いろいろな移住相談を受ける

いろいろな移住相談を受ける。会ったことも見たこともない人からだ。

先日の方は、直感でエネルギーが分かる方だった。あるとき、「天竜川」というメッセージが突然下りてきて、それで、ぼくのホームページを見つけて電話してこられたのだ。

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ぼくのエネルギーが枯渇して疲れていることもよくわかってくれていたし、アカシックレコード(いわば生命の源の記録)を読めたりするらしい。すこし見てもらうと、ぼくは地球に転生してわりと古い魂なんだそうな。

潜在意識の深いところをみてもらうと、深いところで「めんどくさい」というのが、ぼくにはあるんだそうな。

それはまさにそのとおりで、近ごろ、ああ面倒だ、ああ疲れると言っているぞ。ま、いまデイサービスの開業申請の書類つくりとか、行政の報告書類とか、おもしろい仕事じゃないせいもあるけど。

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その方によると、その「ああ面倒くさい」というのは、過去世の深いところからきてるという。メソポタミアの時代、ぼくが穴を掘っている姿が見える。どうも石棺を掘っているみたいだ。ああ、面倒だ、がんばっても褒められるわけでなく、アテがあるわけでもない。くたびれ損だ。それをいまも、引きついでいるという。

妻にそれを言うと、「そのとおりだ」とウケていた。

その方は、ただみるだけじゃなくて、そのぼくのありようを「瞬時に変えられる」という。

「じゃあ、お願いします」。「はい、フィールドを、石棺掘りから花畑に変えました。人生の果実として受け取れる。エネルギーとして、喜びとして受け取れるようになりました」。

「池谷さんは、探求の人なので、これから大いに探求の喜びに入っていきます」と。

まあ、そのようなエネルギーワークのできる場として、田舎暮らしの場を求めているという。今月末に訪ねてこられる。すこし案内させてもらうことにする。